第10回【上智大学院ADS講義ノート|エッセンス】同じ市場を、違う問いで見る | 「学研の実例に学ぶビジネスマーケティング論」
―― 学研は介護事業で、どう"第三の道"をつくったのか ――
▶ この記事の問い
高級老人ホームには手が届かず、特別養護老人ホームにはなかなか入れない――そんな「取り残された層」に、学研はどう応えたのか。そして、うまくいった事例から、私たちは何を、どう学べばいいのか。
かつて多くの小学生が手にした学習雑誌。その世代が、いま高齢者になり、親になっている。学研は、その積み重ねを土台に、介護事業という新しい市場で、長い低迷からの回復につながる足がかりを築きました。
第10回は、ケース学習の3回目です。題材は、慶應義塾大学ビジネス・スクール(KBS)が学研の歴史をもとに作成した、介護福祉事業のケース。そして今回は、ケースそのものを書かれたお一人で、学研ホールディングス元取締役・創業家三代目の古岡秀樹さんにご登壇いただき、ケースを大きな理論へとつなぎ直していただきました。
エッセンス版では、講義の核だけを取り出します。ディープダイブ版では、STPと4Pによる分析、不動産業としてのビジネスモデル、古岡さんの講話、受講生のリアクションまでを、じっくり辿っています。
「成功」を読むのは、むずかしい
トルストイの『アンナ・カレーニナ』は、「幸福な家庭はどれも似ているが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」という一文で始まります。ここから、「アンナ・カレーニナの原則」と呼ばれる見方が知られています。
まず、この原則を企業にあてはめると、こう整理できます。うまくいっている企業は、どれも似ている――やるべきことに一貫性があり、筋がシンプルに通っている。逆に、苦境にある企業は、それぞれに事情が違い、抱える経営課題も多様です。
そのうえで、もう一段、気をつけたいことがあります。成功した企業が「シンプルに見える」ということは、裏を返せば、その成功を読み解くのが、かえって難しい、ということでもあります。シンプルに見える成功の裏側では、いくつもの条件が、たまたまかみ合っていた。「うまくいったのだから、良い戦略だったのだろう」で止めてしまうと、ケースから学び取れるものは、少なくなってしまいます。成功事例を読むときは、その見かけのシンプルさの下にある、条件と文脈までを読む――これが、今回のいちばん大事な構えでした。
同じ市場を、違う問いで見た
では、学研は介護で何をしたのか。鍵は、「同じ市場を、競合とは違う問いで見た」という一点にあります。
当時、介護・高齢者住宅の市場は、「どこが儲かるか」という軸で見られていました。入居一時金が高額な富裕層向けの施設ほど確実に儲かるので、多くの事業者が上の層へ集まります。学研は、この市場を「誰が取り残されているか」という問いで見直しました。すると、高級老人ホームには手が届かず、特養には入れない――厚生年金で暮らす、ごく普通の高齢者が、まるごと空白になっていた。ケースは、これを自動車にたとえます。混んで乗れないバス(特養)と、高くて買えないベンツ(高級ホーム)の間に、誰も供給していない「カローラのセグメント」がある、と。
学研は、この第三の位置を、主張するだけでなく、実際に拠点を積み上げて実践し続けました。入居一時金ゼロ、月額は厚生年金の範囲。すると、その先行する取り組みを見て行政が動き、2011年に「サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)」という制度が生まれます。制度ができる前から、その立ち位置を築いていた先駆者になる――これが、いちばんの勝因です。広告も、入居者本人ではなく、ケアマネジャーなど「紹介者」に絞り、ケースによると競合のわずか十分の一ほどの広告費で高い入居率を実現しました。
本当の勝因は、三世代の信頼だった
ただ、もう一段深いところに、本当の成功要因があります。それが、「社会関係資本」――信頼という、お金で買えない資本です。
かつて『科学』『学習』で学研に親しんだ世代が、いま家庭の中で、二つの役割を担っています。一つは、年老いた親の介護を選ぶ役割。もう一つは、自分の子の学びや預け先を選ぶ役割。この「学研で育った世代」が、上の世代にも下の世代にも決め手として関わり、その人たちに「学研なら安心だ」という感覚が染みついている。だから、高齢者向けでも保育でも、信頼が効くわけです。
財務資本や設備は、お金があれば比較的短期間に手に入ります。けれど、社会関係資本は、長い時間と、ぶれない一貫性によってしか育ちません。しかも、人的資本や知的資本が社内に蓄えられるのに対し、社会関係資本は、顧客や地域、行政との関係のなかに宿る――自社の努力だけでは完結せず、だからこそ真似されにくい。STPや4Pの打ち手は、時間をかければ他社でも対応できます。けれど、三世代をかけて積み上げた信頼だけは、一朝一夕には築けない。ここにこそ、学研「ならでは」の強みがあります。
理念が、市場を創造する
ケースの締めくくりに、古岡さんが、四つのケース(創業・低迷・再生)を理論へとつなぎ直してくださいました。
軸になったのは、「理念が市場を創造する」という命題です。ドラッカーによれば、企業の目的は顧客の創造であり、その基本機能はマーケティングとイノベーション。学研は「家庭教育」という市場をゼロから創造した。そのイノベーションも、シュンペーターが提唱した「新結合」――
既にあるものの新しい組み合わせでした。コンテナが、箱と運用の組み合わせだけで物流を変えたように、学研も、賃貸住宅・介護・金融・地域営業という既存の要素を組み替えて、新しい市場を生み出したわけです。
もう一つの柱が、「成功体験を、どう捨てるか」。かつての主力だった訪問販売を手放せなかったことが、長い低迷を招きました。ビジネスモデルそのもので劣勢のとき、どれだけ良い新商品を出しても勝てない。だからこそ、成功体験をあえて手放す「アンラーニング」が要る、と。そして再生の局面で生まれた介護事業も、最初から設計図があったわけではなく、小さな試行錯誤の積み重ねから立ち現れた「創発的戦略」でした。
おわりに ―― 違う問いで、自分の市場を見直す
学研の介護事業は、明るい結末の裏側に、制約と、規律と、理念と、長い時間軸と、世代をまたぐ信頼という、いくつもの条件が折り重なっていました。その一つひとつを解きほぐすことが、ケースを自分の糧に変える道です。
明日からの一歩は、難しくありません。会議でも資料でも、読み終えたら「要するに何か」を一行で言い切ってみる(クリスタライズ)。事実の整理は生成AIに頼み、この「言い切り」は自分の頭で行う。そして、自分の市場を一度「どこが儲かるか」で描き、もう一度「誰が取り残されているか」で描き直してみる。最後に、自社が長い時間をかけて積み上げてきた「信頼・つながり・評判」――社会関係資本は何かを、棚卸ししてみる。お金で買えないからこそ、それがいざというときの強みになります。
より深く知りたい方へ。ディープダイブ版では、STP・4Pによる分析、価格を「上限から逆算」する設計と先行赤字の意味、不動産業としてのビジネスモデル、古岡さんの講話(カニバリゼーションとダイナミック・ケイパビリティ、イノベーションのジレンマなど)、受講生のリアクションまでを丁寧に辿っています。あわせてどうぞ。
【今回の3行まとめ】
・学研の介護事業の本質的競争優位は、STPや4Pの戦術ではなく「三世代をかけて積み上げた信頼(社会関係資本)」にあり、それは制度化より先に立ち位置を築いた先駆者性と不可分である。
・「どこが儲かるか」から「誰が取り残されているか」へ問いを転換することで市場の空白を発見できる——この問い直しの型は、自社の現事業をそのまま診断ツールとして使える。
・成功事例を「シンプルだから真似できる」と読むのではなく、見かけのシンプルさの裏にある「条件の折り重なり」を解きほぐすことが、ケース学習を自分の糧に変える唯一の道である。
📨 この連載について
本連載「上智大学院ADS講義録」は、上智大学大学院 応用データサイエンス(ADS)学位プログラム寄附講座「学研の実例に学ぶビジネスマーケティング論」(2026年春学期・全14回)を題材に、マーケティング理論の変遷と学研グループの実例を往復しながら、次世代リーダーの「思考のOS」を養うことを目指しています。
毎回、エッセンス版(約5分) と ディープダイブ版(約25〜55分) の二層構造でお届けしています。プロローグ、第1回からの各回も、公式noteマガジンにまとめています。スキ・フォローで次回もお見逃しなく。
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アイクシー株式会社について
アイクシー株式会社は、AIX(AI-Transformation、AIを利活用した変革)と、HRD(人材開発)×OD(組織開発) の両輪で、企業の変革に伴走するプロフェッショナル集団です。理論を配って終わりにするのではなく、お客様の現場に深く入り込み、人と組織が自ら動き出す状態まで、一気通貫で伴走します。
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公式サイト:https://ai-xyz.co.jp
公式noteマガジン:https://note.com/aixyz_official/m/m3f78472abf14
筆者note:https://note.com/watasato_11oq
【筆者プロフィール:ワタサト(渡辺悟)】
アイクシー株式会社 代表取締役 / シュハリ株式会社 ファウンダー / D5C:株式会社ディーファイブコンサルティング 代表取締役社長(KDDIグループAIXコンサルティングファーム)/ 上智大学大学院応用データサイエンス学位プログラム 非常勤講師(起業論とマーケティング論)
PwCコンサルティング(現:日本アイ・ビー・エム)で戦略コンサルティングプロジェクトを数百件以上リード後、シュハリ株式会社を設立。プライム上場の大手教育・福祉サービス企業でCIO・CDO・CHROを歴任した経験から、AIX(AIを利活用した変革)、Z世代の覚醒、経営者人材の創出をテーマに活動しています。2013年度・2014年度には名古屋商科大学(NUCB)ビジネススクールの非常勤講師として、ケースメソッドを核とするMBAコースの「イノベーション」「アントレプレナーシップ」を担当しました。
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