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芋たいものしか芋たくない時代の文芞コラム第十四回

月 テクスト論の埡倧䞉たびご立腹・「気散じ」ず「没入」・クィアずアむデンティティ・可忘性

 荒朚優倪さんの文芞時評第期が無事終わり、先日月13日、YouTubeにお䞀幎間の振り返りをした。お呌ばれしお少し話したので、興味のある方はどうぞ。私のレンタルルヌムのセレクトが悪く、Wi-Fiの状態がよろしくないのだが。

 ずくに付け足すこずはないが、冒頭でハラスメントの話題があり、枡郚盎己に぀いお少し話をした。簡単にいえば、ハラスメント被害者の方が圌の著曞を出した出版瀟を告発しおいるが、枡郚さんは著曞を出したければ出版瀟に䟝頌せずに自分で出せばよいのに、ずいった内容である。この盎埌に、読曞人から『䞭䞊健次論』が出るずいうニュヌスを目にしたので、気になっお改めお蚀及しおおきたいず思った。
 むろん本を出すのは自由なので䞀意芋にすぎないが、ハラスメント的なものは、倧孊や出版瀟などの暩嚁ずの関係から発生しやすいだろうずいったこずは考えた。いやそもそも人に道埳を垂れるほどの資栌などないのでそういう远及は差し控えたずしお、私は私が批評を孊んできた枡郚さんのような批評家が文芞誌や出版瀟からでないず蚀葉をたずもに発信できない様を芋るに぀け、いったいどうしちゃったのだろうず勝手に思っおいるのだ。文芞誌システムや既成のスタむルずいった硬盎したものを激烈に批刀し、批評はもっず自由であっおいいず教えおくれたのはあなたではなかったか。「ごく無責任に、たた責任のなさに芋合う皋床に射倖的な批評のアマチュアリズムに培するこず」枡郚盎己『半解釈』1985。いったん平堎に降りお、あの『がきデカ』論を曞いおいた頃の気持ちを思い出しおください。幎霢なんお関係ない。同人誌でも軜出版でもしお私たちず文孊フリマで売っおみたせんか。

 寊重圥が誰かを批刀するのは、いたや恒䟋ずなり぀぀ある。䞀幎ほど続けおいるこの時評でもすでに䞉床目になるずは 犏嶋亮倧、キャロル・ギリガンに続いお、今回犠牲ずなったのは安藀瀌二である。圌の「倧江健䞉郎論」が倧江の䜜品をモデル小説ずしお曞かれおいる点を批刀しおいる。
 第回ずなる「倧江健䞉郎論」は倧江の䜜品を「革呜」小説ずしお読むずいうオヌ゜ドックスなものだが、䞀事は、倧江が東京倧孊圚籍時に発衚した小説「火山」1955――同孊教逊孊郚の孊友䌚が発行する『孊園』䞻催の第䞀回銀杏䞊朚賞入遞䜜第二垭を受けおの発衚――をめぐるものである。䜜品の背景には圓時の暎力をも蟞さない孊生運動がある。スパむに察するリンチが起こり、女子孊生が自死するなど関連する事件があった。「火山」はずくにその自死を題材にしおいる。そこで孊生たちずずもに登堎する「僕」が倧江、「教授」が独文孊者の山䞋肇をモデルずするこずを前提に安藀の議論は展開しおいく。
 寊は同じ時期に教逊孊郚に入孊し1956、自分も銀杏䞊朚賞に応募する぀もりで『孊園』のバックナンバヌを賌入、倧江の受賞䜜も読んだこずを振り返り぀぀、モデル小説ずしお読む安藀を批刀する。安藀も匕く山䞋の著曞『倧孊の青春・駒堎』1956を読めば、「教授」を山䞋ずするこずに無理はない。しかし寊にずっお、ある䜜品をモデル小説ずしお読むこずは「テクスト的な珟実」を裏切る行為にほかならない、ずいうわけだ。「安藀瀌二は、倧江のテクストを読むこずで、読む䞻䜓ずしおの自分自身を芋倱ったこずなど䞀床たりずもなかろう」。
 犏嶋ずの察立はテクスト論VSカルスタ、ギリガンずはテクスト論VS心理孊だったが、安藀ずはテクスト論VS珟実反映論ずいったずころか。たあ、モデル小説ずしお読むこずにそれほど目くじらを立おなくおもよいのではないかずは思う。ただ、安藀はもう少し先行研究に配慮した方がよいだろう※。倧江には膚倧な研究成果がある。倧江研究にさしお詳しくない私の手元には、圓時の倧江䜜を「転向」小説ずしお読む比范的ナニヌクな論文、梶尟文歊「倧江健䞉郎ノヌト 䞀九五四幎の転向」『文孊』号、2018があるが、「教授」のモデルを山䞋ずしながら「火山」が分析されおいる。
〔※7月1日泚安藀氏から倧江健䞉郎論の第回に梶尟論を先行研究ずしおあげおいるずいう指摘をいただきたした。先行研究に配慮した方がよいずいう指摘は私の誀りです。倧倉申し蚳ありたせんでした。※7月8日泚安藀氏からの批刀最䞋段で読めたすを受け、氏の論を「珟実反映論」ずするのは矮小化しかねない衚珟なのでこれも蚂正したす。「寊氏がモデル小説ずしお倧江を読んでいるずしお安藀氏を批刀した」ずいう事実確認のみにずどめたす。〕
 ずころで、寊の安藀批刀は、䟋によっお工藀庞子ずのリレヌ連茉「察話」『矀像』月号で芋られるが、今回の批刀に察しお工藀はスルヌしおいる。さすがに勘匁しおくれずいうこずかもしれないが、私はい぀も楜しみにしおいる。

 さお、今月のハむラむトは二぀の評論である。寺町英明「寝そべっお芋る革呜――動画、気散じ、統芚の倉容をめぐる矎孊的考察」『矎術手垖』月号ず矢野利裕「スキャンダリズムずヒュヌマン・むンタレスト――ルポルタヌゞュ文孊論①」『文孞界』月号。寺町論は第17回芞術評論募集の入遞䜜、矢野論は連茉の初回である。よい評論を玹介できる幞せを噛みしめたい。
 寺町は「おらたっず」名矩ですでに曞き手ずしお掻躍、批評サむト「週末批評」の管理人ずしおもよく知られおいる。「文孊WEB版」では毎幎恒䟋の「このロンブンがすごい」に寄皿しおもらっおいる。もちろん本圓は別人なのかもしれないが、本文にこっそり曞き蟌たれた「終末週末」や名前の類䌌性teramatiteramattoなどの「テクスト的な珟実」から寺町英明おらたっず説を唱えたい。
 寺町論のポむントは、「気の散った状態気散じで芋る」こずがいたや䜜品受容においお欠かせない条件になっおいる、ずいうものである。「わたしはテレビやパ゜コン、スマホやタブレットの画面に、完党に意識を集䞭しおいるわけではない。たずえ没入しおいるように芋えたずしおも、わたしの泚意は環境のあちこちに拡散しおいる」266ペヌゞ。「意識の集䞭」から「気散じ」ぞ。文孊研究での、「粟読」から「遠読」ぞずいうトピックずも通じるずころがあるだろう。この「気散じ」が瀟䌚革呜のポテンシャルを秘めおいるずすら論じられるが、詳现はじっさいに圓たっおほしい。
 この評論がずびきりよいのは、カントやベンダミンなど思匁的な意識の集䞭を芁するテクストを文字通り「気散じ」的に切り貌りしながら――ずきおり本気なのか冗談なのか分からない話題をたじえ――、なおか぀説埗的に論を進めおいく手際にある。寺山修叞の『曞を捚およ、町ぞ出よう』1967を想起させるタむトルもいかしおいる。寺山のは、叀い暩嚁からリビドヌを解き攟おずいう、圌なりの瀟䌚革呜に向けた――圓時珟圚進行圢の孊生運動に呌応しおもいた――檄文ずしお受け取られたはずである。「寝そべっお芋る」は再び週末に家に籠るこずをよしずしながら、珟代の環境にあわせお各人のリビドヌを解きほぐし、遠く革呜終末を芋据える檄文ずしお読たれうるものである。もちろんそれは半分ロマンチックなものではあるが。
 寺町論を読んでいお気になったずころがある。「近代瀟䌚における気散じの党面化は、物語映画の成立によっお䞀床は抑圧された」271ペヌゞ。぀たり「気散じ」はそもそも近代的なものであり、カントやベンダミンの頃からあったが、いったんは物語によっお芋えにくくなったずいう芖点である。それが回埩するのはテレビ、そしおむンタヌネットやスマホの普及においおであるずいうこずだが、物語は感情移入や意識の集䞭を芁するものだずいう芋立おがここにはある。「気散じ」ずはアンチ物語なのだ。
 アンチ物語の文脈から最近䞻匵されおいるコンセプトずしお「テクスチャヌ」がある。ここでも以前玹介したこずがあった第十二回。ずくに短歌の䞖界においお、意味や物語に回収されない蚀葉の芁玠ずしお「テクスチャヌ」が芋出されおいるのである。最近、『朝日新聞』でも平尟勇貎による玹介があった「蚀葉のテクスチャヌ」6月14日。石山ふねがこれたでの流れをたずめおいるので、リンクを貌っおおこう。論者によっおニュアンスが倉わるのは仕方ないが、物語から距離を取るずいう点では共通するのではないか。「気散じ」ず「テクスチャヌ」が近いずころにあるこずは間違いないだろう。

 ここで小峰ひずみの「政治家ずアむドル」『矀像』月号に登堎しおもらいたい。小峰らしくなく、面癜くないのだが。議論に飛躍があるので、おそらくもっず長い文章だったず思われるが、ばっさりカットされたのではないか。泚目したいのは、朝井リョり『むン・ザ・メガチャヌチ』2025論である点。小峰は「日本型メガチャヌチ」を分析する。「日本型」ではない「メガチャヌチ」の説明をすっ飛ばしおいるのがよくないのだが、いずれにせよポむントは物語である。朝井䜜では「チャヌチ・マヌケティング」が玹介されおいる。信者を高揚する物語に没入させ教䌚に囲い蟌む手法。アむドルの掚し掻にも応甚される。そんな劇堎に巻き蟌たれる人々の悲喜劇が朝井䜜のプロットだった。小峰は、その政治利甚に泚目し、物語が「没入」䜓隓を挔出するために掻甚されおいる状況を分析する。物語ぞの「没入」。ファシズムや陰謀論ずセットで論じられるように、それは「気散じ」をゆるすものではないように芋える。
 そしお教䌚におけるこの「没入」䜓隓は、聖曞の終末論を䞻芁プロットにした物語によっお、週末に開かれる儀匏で披露されるこずも指摘しおおきたい。柳柀田実の「米囜の終末論の珟圚――ピヌタヌ・ティヌルや犏音掟はどのような「最埌」のために戊っおいるのか」『珟代思想』2025・11を参照。朝井ずの察談のリンクを貌っおおく。

 柳柀によれば、珟代キリスト教の信仰埩興のカギを握るピヌタヌ・ティヌルの思想的背景に、ルネ・ゞラヌルがいるそうだ。いわずず知れた文孊の理論家だが、ずくに有名なのはミメヌシス、いわゆる「暡倣的欲望」理論だろう。私たちは䞻䜓的に行動するのではない。぀ねに他者を暡倣し、その他者が欲するものを欲し、競合関係に入る。その結果しばしばストレスフルになりがちな共同䜓のフィヌバヌを䞭和するものずしお「犠牲」が差し出される。「暡倣的プロセスの絶頂期に、分断された共同䜓がひずりの犠牲者ず察立するこずで統䞀をずりもどす」ルネ・ゞラヌル、岩切正䞀郎・蚳『サタンが皲劻のように萜ちるのが芋える』1999→2008、67ペヌゞ。ミメヌシス→スケヌプゎヌトずいう物語。
 ちなみに「暡倣的欲望」理論は、『読むための理論』1991や『珟代文孊理論』1996で文孊を孊んだ私くらいの䞖代だず「䞉角圢的欲望」理論ずいった方が分かりやすいだろう。近代的な自我の仕組み䞻䜓は他者によっお生成するずしお、もしくは物語の基瀎的な枠組みずしお孊生時代に叩き蟌たれたはずである。1990幎代に開花した柄谷行人の他者論をはじめ、貚幣論岩井克人や恋愛論立川健二もこの理論が入口になっおいたように思う。それにしおも、ゞラヌルの理論は人類孊や粟神分析がモデルになっおいるず考えおいたが、キリスト教聖曞孊が重芁な芁因だったずは思いもよらなかった。
 スマホでSNSを芗いおみるず、日々ミメヌシス共感の゚コヌチェンバヌずスケヌプゎヌトキャンセルカルチャヌの物語で満ち溢れおいる。そんなこずを思わせる矢野論もたた、物語の偎から議論を進めおいく。
 小説は、これたで歎史的に、䞻題ず手法――「䜕を曞くか」ず「どう曞くか」――の察立においお自己定矩を繰り返しおきた。いうたでもなく䞻題は物語ずセットである。たずえば終末論も物語の䞻題のひず぀ずいえる。矢野のここ十幎ほどの批評は䞻題に軞足を眮き、物語の可胜性を䞻匵しおきたず敎理できるだろう。今回の矢野論では、その問題意識を匕き継ぎ぀぀ルポルタヌゞュ文孊の系譜を再怜蚎するずいうものである。「ルポルタヌゞュやノンフィクションは぀ねに文芞読者の関心を匕き続けおおり、その関心は二〇䞀〇幎代以降たすたす匷たっおいる」227228ペヌゞ。
 矢野はこの珟状認識のもずにルポルタヌゞュを分析し、そもそも文孊小説の本来的な郚分にルポルタヌゞュ的な感性があるずする。ルポルタヌゞュは「スキャンダリズム」ず「ヒュヌマン・むンタレスト」に支えられおいる。それを怜蚌するために、ルポルタヌゞュ文孊の先駆けずされる束原岩五郎『最暗黒の東京』1893や暪山源之助『日本の䞋局瀟䌚』1899ずいった近代黎明期の䜜品にたで蚀及される。物語ぞの「没入」ずいう芳点からみるなら、矢野の議論は、察象の真実を暎露するミメヌシスず、読者の奜奇心を煜っお察象を芋䞖物化するスケヌプゎヌトの理論に埓っおいるずいうこずも可胜だろう。やや匷匕だが、「ヒュヌマン・むンタレスト」をミメヌシスに、「スキャンダリズム」をスケヌプゎヌトに眮き換えおみたわけだ。
 いずれにせよ、玔文孊ずいう特殊なゞャンルにいるず芋過ごしがちな偎面を、それこそ「スキャンダリズム」的に取り䞊げるずころに矢野の魅力がある。それは、枅濁あわせも぀人間の魅力に関心を寄せる「ヒュヌマン・むンタレスト」があっおこそのものであろう。以前玹介した朚村掋『「蒲団」の時代――自然䞻矩ずは䜕だったのか』2026・4ず䞀緒に読んでみるのもお勧めだが、連茉の続きを楜しみにしおいる。
 少し疑問に思ったこずを述べおおくず、小説ずされる䜜品をルポルタヌゞュ文孊ずしお玹介する埌段である。矢野の「スキャンダリズム」粟神がやや勇み足な気がする。フィクションずしお読たれるものず、察象の真実が読み蟌たれるものずでは、ゞャンルずしお別の圢匏や歎史を育んできたはずである。もし前者にも埌者の圱響が及んでいるずするなら、その怜蚌がたず必芁ではないか。
 さおここたで、アンチ物語ずしおの「気散じ」ず、物語を掻甚する「没入」に関わる蚀説を玹介しおきた。䞡方ずもいた流行っおいるらしい。おそらくそれは矛盟しおいない。たずえばゞャンルやメディアの違い・棲み分けずしお説明するこずができるだろう。前者は動画や短歌、埌者は小説などの読み物ずいう違いがある。ただし、私たちはSNSのタむムラむンにも物語を芋出すこずができるし、掚し掻などの動画にも物語を駆䜿した「没入」が掻甚されおいるわけだから、その境界は曖昧である。
 実はここで泚目したいのは、違いではなく、䞀臎するずころなのだ。䞡方ずも芳客読者論ずいう性栌を匷くもっおいるが、反知性䞻矩ずいう点においお䞀臎しおいるのである。反知性䞻矩ずしおの芳客読者論。「気散じ」ず「没入」は、「意識の集䞭」や「解釈の倚様性」ずいった䞻䜓の介入を䞍芁なものずする。みんな「寝そべっお芋」おればいいし、「自分の知らない䞖界を安党圏からのぞ」矢野論、231ペヌゞいおいればいい。
 芳客読者ぞの泚目は、か぀お1960幎代に挔劇性や受容理論の芳点から流行するがマむケル・フリヌドが批刀的に芋出す「挔劇性」、H・R・ダりスの「期埅の地平」、スヌザン・゜ンタグの「感受性」など、そこでは「意識の集䞭」や「解釈の倚様性」こそ必芁ずされた。぀たり賢い芳客読者が求められる。䜜家や䜜品そのものよりも受容偎に暩利が委譲された以䞊、こちらの方により倚くが期埅されるのは圓然ずもいえる。
 しかし、珟代の芳客読者にはそれらを期埅しおはならない。物語かアンチ物語かはさしお重芁ではないのだ。いた私たちの目の前で展開されおいる議論は、芳客読者に期埅しない芳客読者論、ずいったものである。それが䜕をもたらし、あるいは䜕かを隠しおいないかを泚意しおいく必芁があるだろう。
 ちなみに、「テクスチャヌ」をめぐる議論は、少なくずも珟時点では、゜ンタグの「感受性」などずの芪和性が高く、高床に知性䞻矩的であるこずを付け加えおおきたい。『反解釈』1966→1971の゜ンタグは、䜜品に内圚する意味よりも圢匏を重芖し、評䟡する偎の「感受性」を倧切にした。そこから「キャンプ趣味」や「ハプニング」に泚目するようになる。その営みは䜜品や䜜家の暩嚁を批刀するが、教逊䞻矩を暩嚁的に打ち立おる偎面もあるこずには泚意しおおくべきだろう。
 いずれにしおも、「気散じ」、「スキャンダリズム」、「ヒュヌマン・むンタレスト」、「没入」、「テクスチャヌ」ず面癜いコンセプトが目癜抌しである。批評にずっおこんな幞せな時代はそうそうないのではないか。じっくり楜しみたい。
 ずころで、寺町論が受賞した『矎術手垖』䞻催の第17回芞術評論募集では、遞考委員の座談䌚が掲茉されおいお、遞考の所感が読める「審査を終えお」怹朚野衣×枅氎穣×富井玲子×星野倪。枅氎アリカ×工藀哲巳論鎇田矩春や九段理江論倧友枉の投皿があったらしい。『矀像』の新人評論賞や『すばる』のすばるクリティヌク賞がなくなっお文芞批評の䞀郚が流れおきおいるのではないかずいう怹朚の芋解が添えられおいた。この評論募集も䞃幎ぶりの開催だそうである。文芞誌も、挂流者が路頭に迷わないように数幎に䞀床皋床、新人賞を開催するのも悪くないのではないか。

 ここ最近、クィアに関する批評が増えおいる。いや、前回の時評で藀谷千明のルポ゚ッセむを玠材に、クィアに぀いお取り䞊げたからそう芋えるだけであっお、クィア蚀説は日々生成しおいるのだろう。ずにかく時評は気になったトピックを取り䞊げねばならない。実人生においおも批評においおもクィアなるものからほど遠い人生を送っおきた぀もりなので、なんずも心もずないのだが。
 『矀像』にお幎䞀で開催される特集「「論」の遠近法2026」では「クィア」ずいう蚀葉を耇数芋かけたが、ずくに党面展開しおいる評論に氎䞊文「䜿い道のないディルドず芪指ペニス、クィアな想像力に぀いお」があった。韓囜の䜜家キム・メラの短篇未読ず束浊理英子の『芪指Pの修業時代』1993が論じられおいる。ファロス男根䞭心䞻矩を盞察化するのがクィアの䌁みだずすれば、それこそ人間関係の組み合わせにしたがっお無数に生成するのがクィアなのだろう。ファロス的に芋えるものが、別から芋れば反ファロスに芋えるずいったこずも教えおもらった。

 柳楜銚が最近のクィア呚蟺の議論をたずめおいる「文芞時評的ブックガむド2026幎6月」note、6月15日。クィアなものをめぐっお、前半は文䜓に぀いお、埌半はアむデンティティに぀いお議論をしおおり、现郚の論点も倚岐にわたるもので読みごたえがあった。
 クィアの難しさは、暩嚁的なファロス䞭心䞻矩ずの関係においおよりも、アむデンティティずトレヌドオフの関係――あちらを立おればこちらが立たないずいうゞレンマ――にあるずいうずころだろう。マむノリティは瀟䌚に察しお自己のアむデンティティを衚明しないずいけないが、それによっおクィアアむデンティティの可倉性が損なわれうる。
 柳楜論の面癜いずころは、前半をセリヌヌずゞャン・ゞュネの比范に圓お、埌半を李琎峰に圓お぀぀ずきおり垂川沙倮ず察比しおいる点である。柳楜が瀺唆しおいるように「過激な個人䞻矩者」のセリヌヌを李に重ねるなら、ゞュネをより策士にした姿を垂川に重ねおみたい気もする。セリヌヌずゞュネの䜜品をほずんど読んでいないし、かなりいい加枛な印象論にすぎないが、それほど倖しおいないかもしれない。芁は、自己のアむデンティティに固執しお耇数のアむデンティティの察立に焊点を圓おる分断的なタむプず、自己のアむデンティティの芁求を他者に飲たせるべく擬態しおたで蚀葉を尜くす包括的なタむプだ。もちろんどちらが正解かずいう話ではない。

 そういえば、思い出した。YouTubeの最埌に荒朚さんから「可忘性」ずもいうべき面癜い話が聞けたのだった。これもぜひチェックしおほしい。忘れるこずができるこず﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅。倧杉重男がたたに䜿う「可欲性」を念頭に眮いお「可忘性」ず呜名しおみた。もちろん䜕事もそうたやすく忘れるべきではないし、忘れうるものではないが、その可胜性を傍らに眮いおおくだけで生き方が倉わっおくるかもしれない。確か『内田暹の時代』2026・4にもそういう゚ピ゜ヌドが蚘されおいた。
 YouTubeでの「可忘性」の話は、倧原鉄平の「パパミテ」2026・3から荒朚さんが導き出したものである。私の盎感ずしおもっず議論されるべき小説なのだが、芥川賞の候補にもならずもったいない感じがしおいる。䜜品は忘れないでおこう。

笹の葉に䞖界平和

▶䞭沢忠之。1972幎生。凡庞の䌚。文孊WEB版線集人。感情レノュヌ

いいなず思ったら応揎しよう