物語はコードとして実行される——ロラン・バルトとは別の仕方で|物語実行論③
ロラン・バルトによって解放されたテクストには、まだ残された問題がある。
読者は、どのように物語を内部で実行しているのか
※ 本記事は、物語実行論シリーズ予告編
「物語はなぜ『意味』だけではなく『構造』として読めるのか——物語実行論への招待」
および第2回
「物語についてロラン・バルトは何を解放し、何を残したのか——「作者の死」を超える物語実行論②」
を踏まえた続編となっています。
👉 初めての方は、まず予告編から読むと、全体像がつかみやすくなります。
物語実行論予告編
「物語はなぜ『意味』だけではなく『構造』として読めるのか——物語実行論への招待」
👉 物語実行論第2回
物語についてロラン・バルトは何を解放し、何を残したのか——「作者の死」を超える物語実行論②
■ 「俯瞰」ではなく、「順次進行」として読む
ロラン・バルトは、テクストを「意味の固定」から解放しました。
しかし冒頭に掲げたように、そこには、なお残されていた問題があります。
読者は、どのように物語を内部で実行しているのか
という問題です。
前回第2回で見たように、読者は、結末を俯瞰しながら物語を読むわけではありません。
未来未確定のまま、一行ずつ、遅れながら読み進めていく。
つまり読書とは、本来、
物語の構造を、順次進行の中で実行していく経験
なのです。
このとき読者は、物語全体を見渡す「俯瞰」の視点を放棄しています。
それは物語を「全体構造」として把握するのではなく、その都度現れる出来事や条件に反応しながら、時間の中で読み進めているのです。
そう考えてみると、物語を「構造」として捉えるとき、私たちは、どこからその構造を見ているのでしょうか。
ロラン・バルトのコード論は、主として、テクストを複数のコードが交差する場として捉えていました。
もちろん、それが間違っているなどと言いたのではありません。テクストを単一の意味から解放する、決定的な転換でした。
けれども、そのコードは、なお主に、
「どのような意味が生成されるのか」
という側面から扱われていました。
それが物語を「俯瞰」する視点へ、再び引き戻してしまうのです。
繰り返しますが、実際の読書では、読者は未来未確定のまま、一行ずつ物語を読み進めていきます。
つまり物語は、静止した意味として存在しているのではなく、
読者の内部で、順次実行されている。
そうであるならば、「コード」という言葉そのものも、
もう一度捉え直す必要があるのではないでしょうか。
■ バルトの「コード」とは何だったのか
ロラン・バルトは、『S/Z』において、物語を複数のコードによって構成されるものとして分析しました。
大雑把ながらまとめて挙げると、
行為を進行させるコード
謎を生み出すコード
文化的知識を呼び出すコード
象徴的対立を作るコード
などです。
重要なのは、ここでバルトが、
物語を単一の意味へ回収しなかった
という点でしょう。
物語は、一つの中心的意味によって成立しているのではない。むしろ、複数のコードが絡み合いながら、読者の中で意味を生成し続ける。
バルトは、そうしたテクストの「多義性」を開いたのです。これは極めて大きな転換であったことは言うまでもありません。
それまでの文学読解が抱え込みやすかった、
「作者は何を言いたかったのか」
という中心回収的な読みを大きく揺さぶり、「定形解釈」に再考を迫りました。
テクストは、単一の意味で閉じていないということです。
これは、物語を「開かれた構造」として捉え直したという点で、決定的に重要でした。
しかし同時に、この多義性は、
読解をどこまでも拡散させてしまう危険
も孕んでいました。
複数のコードを自由に接続できるということは、
時に、どこまでも意味を増殖できてしまう
ということでもあるからです。
バルトのテクスト理論が注目され、「語りの構造」が盛んに論じられたとき、
読者の自由を拡大解釈し、テクストから切り離された恣意的なコード接続が行われることも少なくありませんでした。
その結果、テクスト理論そのものが、
「結局、何でも読めてしまうのではないか」
という懐疑へ収束し、多くの関心を失っていった側面があります。
これは、バルトの大きな功績とはかけ離れていました。
けれども、このテクスト分析の歴史的混乱は、単に間違いであったと片付けるのは早計です。
というのは、その自由な読解の混乱は、
バルト自身の意図を離れながらも、一つの重要な事実を露出させているからです。
露出したのは、
読者が、それぞれ自分の内部で、物語を進行させていた
ということです。
ただし、その多くは、方法として十分に整理されたものではありませんでした。
しかし逆に言えば、そこには、
「物語が、実際にはどのように読者の中で進行しているのか」
という問題が、未整理なまま現れていたととらえられるでしょう。
これは、見えにくかったバルトのテクスト理論の問題として開いたと言えるのではないでしょうか。
つまり、
コードが複数存在すること
は見えた。
しかし、
それらが、どの順序で、どの条件のもとで、読者内部に立ち上がるのか
という「進行」の問題です。
自由な読解の実践という歴史的混乱は、ただ自由奔放でしかなく、「進行」が十分には扱われていなかったのです。
やや乱暴に言えば、そこでは、テクストの外部からコードを持ち込み、
自分なりの読みとして再構成することが、「自由な読解」だと考えられてしまった側面があります。
しかしそれは、読者自身の解釈を前景化する一方で、
テクストが、どの順序で、どの条件を通して読者内部に作用しているのか
という構造そのものを見えにくくしてしまいました。
それでは、テクストを「実行」したというより、
むしろ別のテクストへ置き換えてしまうことになります。
新しくテクストを造形したとさえ言えます。
ここに、物語実行論の出発点があります。
テクストを前から読んでいきながら、コードを拾う。
それを作用するように実行してみる。
そのために構造はあるのです。
このとき、バルトのコード論と物語実行論との差異も、より明確になります。
バルトが『S/Z』で示した5つのコードは、
いわばテクストに付与された「メタデータ」のようなものと言えるでしょう。
いわば、「どのような働きを持つ要素が存在しているのか」といった分類や記述です。
それに対して物語実行論が提示するのは、
「いつ、どの行で、どの処理が走るのか」という順序(シーケンス)の記述
なのです。
ただし、これはバルトのコード論を否定しているわけではありません。
順序(シーケンス)を記述するためには、当然ながら、「どのような働きを持つ要素が存在しているのか」を把握していなければならないからです。
したがって、ここにあるのは単純な「相違」ではありません。
むしろ、コード論を、「前から読む」という読書の時間性の側から捉え直す、別の仕方の差異なのです。
■ コードは、まだ静止していた
バルトのコード論では、テクストは確かに複数化されました。
しかし、そのコードは、依然として「俯瞰された構造」として扱われています。
読者は、本来そういうとらえ方ができず、最初から全体構造を見渡してはいません。
一行先すら知らないまま、物語を読みすすめる時間の中で、物語の語られる順番に従って、物語内容に遅れながら、物語を読んでいく存在です。
繰り返しますが、読書とは、
未来未確定の状態を、順次実行していく経験
なのです。
したがって重要になるのは、
複数のコードが存在すること
よりも、
そのコードが、どのタイミングで、どの条件下で、読者内部に発火(トリガー)するのか
という点です。
コードは、単なる意味分類ではないでしょう。
条件によって、読者の内部で動作する構造要件なのです。
つまりコードとは、
「何を意味するか」
だけではなく、
「どのように進行するか」
にも関わっている。
物語実行論は、ここをとらえます。
複数コードの共存を認めながらも、それを「前から読む」という読書の時間の中で捉え直す。
言い換えるなら、
物語は、コードの束である以前に、
コードが順次実行されるプロセス
なのです。
これは、バルトの否定ではありません。むしろ、
バルトとは別の仕方で、コードを読む試み
と言った方が近いでしょう。
■ なぜ「プログラミングコード」なのか
ここで、「コード」という言葉を使う理由を、もう少しはっきりさせておきましょう。
プログラミングコードで物語を考えることは、単に物語を抽象化するためではありません。論理の厳密性を強調したいのでもありません。
むしろ重要なのは、
物語が「前から読まれていく」
という実行性を、明確に記述できることです。
一行先を知らないまま、順番に、条件に反応しながら、読み進めていく。
これは
完成済みの意味を眺めることではなく、
逐次的に処理を実行していく経験
です。それは、プログラミングコードが、上から順に条件を処理しながら実行されていく構造と、極めて近い関係にあります。
そして、もう一つ大きな利点があります。
コードは、
個人的な解釈の温度差を、ある程度まで零度化できる
ということです。
零度とは、バルトによれば、過剰な修辞性や歴史的文体性を、一度フラットにする地点ということです。
もちろん、文学から解釈の差異を完全に消すことはできません。
感覚的な実感や手応え、共感もあるでしょう。それらが打ち消される解釈などに、そもそも意味はありません。
しかし、
「どの条件で」
「どの情報が入力され」
「どの処理が発火(トリガー)したのか」
を(プログラミング)コードとして記述することで、
少なくとも、
どこで読みが分岐したのか
を共有しやすくなる。
これは非常に重要です。
なぜなら、従来の文学論では、しばしば解釈そのものだけが提示され、
「なぜその読みになったのか」
という実行過程が見えにくかったからです。しかも、文学論は、論者の表現の仕方で、受け取る側の解釈がさまざまになってしまうきらいがあります。
物語実行論は、解釈の結果だけではなく、
その実行ログそのもの
を扱おうとします。
これは、「解釈は人それぞれ」で終わらせないためです。
もちろん、文学の読みを完全に単一化することはできません。
しかし、プログラミングコードが、
「どの条件で、どの処理が実行されたのか」
を追跡可能にするように、
物語の読解においても、
「どの条件から、その読みが発火(トリガー)したのか」
を共有可能にすることはできるでしょう。
重要なのは、解釈を一つに固定することではありません。
文学をプログラム化したいのではないのです。
むしろ、
どこで読みが分岐したのか
を、構造として可視化することです。
したがって、ここで言うコードとは、単なるプログラミング比喩ではありません。
むしろ、
読者の内部で、思考や判断を起動する条件構造
のことです。
バルトは、テクストの内部に複数のコードが走っていることを開きました。物語実行論は、そのコードを、さらに「実行」という観点から読み直そうとします。
つまり、
コードが存在すること
ではなく、
コードが、読者内部でどのように駆動するのか
を問題にし、それを共有可能なかたちで提示するのです。
■ 『走れメロス』をコードとして読む
例えば太宰治「走れメロス」では、
メロスは単純に「友情の人」として存在しているわけではありません。
王様もあらかじめ「邪智暴虐」ではありません。
物語内部では、さまざまな条件が、順次実行されています。
老爺の語り
「単純な男」という属性
「邪智暴虐」というラベル
信実
約束
疑い
こうした条件が、読者内部で連続的に処理されることで、物語が進行していくのです。
以前、「走れメロス」の内容で、三日後の日没までに帰ることについて、次のように書きました。
if (melos_returns) {
resolve(); }
else
{ reject(); }もちろん、これは作品を単純化するためではありません。
重要なのは、
メロスが、if…else… の条件分岐の中を走っている
ということです。
if_もしメロスが戻ってきたら。
else_もし戻ってこなかったら。
物語は、その分岐可能性を抱えたまま進行しています。
そして、この条件分岐が実行されているあいだ、
「メロスは戻らない」ことを期待する王の側の物語は、一時的に非表示になっている。
つまり「走れメロス」とは、
条件分岐を抱えたまま進行する実行構造
を持っている小説として読むことができるのです。
重要なのは、
物語が、条件分岐を伴う実行構造として読める
という点です。
ここでは、意味より先に、
「どの条件が、どの行動を発火(トリガー)させるか」
が問題になります。
■ 「右クリック」された物語
実際、実践編として「走れメロス」を、
オーバーライド
レンダリング
CSS
display:none
インポート
コメントアウト
といった言葉を使って読解し、コードで表現してきました。
これは単なる装飾的比喩ではありません。
例えば、「聞いて、メロスは激怒した」ーー「聞いて」という条件をとらえて
メロスは老爺の語りを受け取った瞬間、
王を「邪智暴虐」としてレンダリングすると表現しました。
あるいは、メロスの「単純な男」という属性によって、
「のそのそと」王城に入って行って捕縛されるという場面から
警備兵や王城の堅牢さが、視界から display:none; のように、
一時的に視界から外れていることを見出しました。
さらに、祝宴の夜では、
村という実体レイヤーが、「勇者メロス」という仮想レイヤーによって、
上書き(override)されていくとも説明しました。
つまり物語とは、
登場人物が動くこと
ではなく、
どのコードが、どのレイヤーを前景化し、どの条件を実行するか
という構造でもあるのです。
ここでは、意味解釈そのものよりも、
物語が、読者内部でどのように駆動しているか
が問題になります。
ここで行っているのは、特殊な読みではありません。
むしろ、
「前から読む」
という読書の時間性を、徹底して追いかけているだけです。
それは、物語を「右クリック」するように読むことです。
右クリックとは通常隠されている機能を出すときにする動作です。
構造に潜む条件を、表に出して、実行してみせるための「右クリック」なのです。
つまり、表面のストーリーを眺めるのではなく、
その背後で、何が実行されているのかを見る。
物語実行論とは、そういう読みです。
■ コードは、時代ごとに再実行される
そして、ここで重要になるのが、前回最後に残した問題です。
外部のコードは、どのように内部で実行されるのか。
物語は、読者の内部で実行されます。
しかし、そのコード自体は、読者の内部から生まれたものではありません。
あくまでも読者にとっては、外部のコードです。
それは、
言語
文化
時代
価値観
歴史
といった、外部によって形成されています。
だから同じ作品でも、時代によって実行結果が変わる。
かつては自然だったコードが、現代では異様に見えることもあるでしょう。逆に、以前は見えなかった構造が、現代では強く実行されることもあるはずです。
つまりコードとは、
固定された意味
ではありません。
読むたびに、環境に応じて再実行される構造なのです。
注意深くとらえておきたいのは、
コードが単純に「置き換え」られるのではないということです。
物語コードは、読者内部で再実行されることによって、
既に内面化されているコードを書き換えていく。
つまり「置換」とは、
実行を通して起こる変化
なのです。
さらに言えるのであれば、物語とは、コードを書き換える構造でもあるのです。
読者は、その時代や文化、価値観といったコードを内面化した存在として、外部の物語コードを読み解いています。
それは、第1回で述べたように、
物語を読むことが、そのまま「生きること」に接続している
ということでもあります。
しかし重要なのは、
読者が、自らのコードで物語を書き換えること
ではありません。むしろ、
物語コードによって、自らの内部コードが書き換えられていくこと
です。
だから、「私はこの物語をこう読んだ」という読解は、単なる感想ではありません。
それは、
自分が、この時代を、どのようなコードで生きているのか
を表明することでもあるのです。
そして物語実行論は、
その読解の過程を、
どの条件で、どのコードが発火(トリガー)したのか
という形で、共有可能にしようとします。
ここではプログラミングコードとは、
感想を排除するためではありません。
むしろ、
読解がどのように実行されたのか
を、零度に近い形で記述するための方法なのです。
■ 物語は「コード」を超えていく
ここまで来ると、物語の見え方はさらに変わり始めます。
物語は、単なる意味の集合ではない。
単なるコードでもない。
むしろ、コードを動かすための、より大きな基盤として働き始めます。
読者の判断。
解釈。
倫理。
感情。
行動。
それらは、個別に存在しているのではありません。
物語は、それらを起動し、接続し、方向づける環境として働いている。
つまり物語は、
「読む対象」
というより、
思考そのものを実行させる環境
として見え始めるのです。
そうすると、次に問題になるのは、
物語が「何を意味するか」
ということではなくなります。
むしろ、
なぜ物語は、人間の思考や行動そのものを動かしてしまうのか
ということです。
次回第4回では、この視点をさらに進めながら、
物語はなぜ「読むもの」ではなく、「OS」として捉えられるのか
を考えます。
👉 第4回 物語は「意味」ではなく、OSとしての思考環境である|物語実行論④
🔗 関連記事
※ この物語実行論シリーズ全体の問題設定や目的は、
👉 予告編「物語はなぜ『意味』だけではなく『構造』として読めるのか——物語実行論への招待」
で整理しています。
物語実行論シリーズ本編
👉 第1回
「なぜ物語は『意味』ではなく『実行』なのか——物語実行論①」
👉 第2回
物語についてロラン・バルトは何を解放し、何を残したのか——「作者の死」を超える物語実行論②
👉 第3回(本記事)
物語はコードとして実行される——ロラン・バルトとは別の仕方で|物語実行論③
👉 第4回
物語は「意味」ではなく、OSとしての思考環境である|物語実行論④
シリーズ全体をまとめて読みたい方へ
本記事は「物語実行論」シリーズの第3回です。
シリーズ全体の問題設定・理論構造・各回一覧は、こちらの記事にまとめています。
👉 「物語実行論とは何か──『意味』から『実行』へ変わる読解論」
👉 ①構造的読解の解説
読めているのに分からないのはなぜか——国語読解を変える「構造」という視点
👉 ②物語実行論解説(図解入り)
物語実行論とは何か|文学を「右クリック」して読む方法
👉 ③全体像
【文学xICT 案内図】文学を「右クリック」する|物語実行論へようこそ
🚀 実際の作品で構造を読む
🔗 構造的読解として「羅生門」を分析する
「羅生門」は、テーマや倫理観が深く読み取られた作品です。
それを物語構造に視点を当てて読むと、どうなるのか。
👉 詳細は、全4回のマガジンで書いています。
まずはガイド「高校国語で差がつく!『羅生門』を深く読むための実践読解法|マガジン案内」をお読みください。
👉 直接マガジンに行きたい方はこちら
芥川龍之介『羅生門』の読解・考察・教材研究・リスキリング
これほどに視点が明確になり、「羅生門」本文だけで決着する作品は、優れて稀でしょう。
🔗構造的読解を踏まえて、自分の言葉で物語を実行した「走れメロス」
「羅生門」マガジンは構造的読解という点を中心にしていますが、その技法から実行に軸足を移しているのが、「走れメロス」マガジンです。
物語実行論の具体例にもなっています。
👉 詳細は、全10回のマガジンになります。
まずは、ガイド
「走れメロス」の読解|「友情の物語」ではない構造的な読み方
をご覧ください。
👉 マガジン全10回の各回のガイドはこちらです。
【保存版】「走れメロス」をプログラミング的に読み解く|物語の構造・条件分岐・実行の仕組み:マガジン案内
👉 直接マガジンに行きたい方はこちら
太宰治「走れメロス」の仕組みを分析|物語を読み解く物語実行論
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