応元維新――兆しは、すでに現れている⑤ 第五章 国民の決断

静かといっても、無音ではない。テレビは騒ぎ、速報テロップは絶えず走り、開票所の映像では人がせわしなく動いていた。

駅前の居酒屋は混み、コンビニの駐車場では若者がスマートフォンを覗き込み、高速道路の下では選挙カーの残した埃がまだ風に舞っていた。

それでも底の方では、どこか音を呑み込んだような静けさがあった。

歴史の一ページに立ち会う、という言い方がある。だがこの夜、多くの国民が味わっていたのは、それとは少し違った。ページを眺めているのではない。自分の投じた一票で、そのページを作っている。

新しい歴史の中へ、自分の足を踏み入れてしまったという、大きな不安と少なくない期待。その二つが、打ち消し合うことなく同時に胸にあった。

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開票が始まって数分も経たぬうちに大勢が決した。

民主皇統主義を掲げる新勢力と、それに近い再編野党が、序盤から異様な強さを見せた。

地方でも都市部でも、若者の多い選挙区でも高齢化の進んだ地域でも、差はあれど同じ方向の風が吹いていた。

各局のスタジオでは、まだ慎重な言い回しが保たれていた。だが、画面の端に並び始めた当確の色は、もはや誤魔化しようがなかった。

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青年は古いアパートの一室で、スマートフォンを眺めていた。

国民の決断に興奮するニュースを、自分がどんな顔で追いかけているのか、青年にはもう分からなかった。

机の上には飲みかけの水と、何日も前の新聞が置かれている。カーテンは閉めたままで、部屋にはテレビもつけていなかった。音がうるさいからではない。あの種の声がもう信用できなかったからである。

彼はかつて、決起に少なからず加担した。表に名は出ていない。出てはいないが、自分だけは知っている。どの夜に何を運び、どこで何をし、どこで目を逸らしたかを、忘れようにも忘れられない。

情勢が伝わった時、彼は息を吐いた。

救われたと思うには、流れた血を知りすぎていた。罪悪感はある。だがあのとき感じた高揚感が、今日の結果と重なった。

やってやった。
そう思った自分を、どこかで見ていた。

仲間と呼べる者たちは、もう近くにはいない。逮捕された者もいれば、消息を絶った者もいる。別の場所で別の役割を果たし、互いの顔もよく知らぬまま、同じ思想の断片だけを共有して散っていった者たちである。

そんな中に、少女がいたことを覚えている。一度見ただけだが忘れられない全く場違いな笑顔を思い出した。
その後どうしただろう?考え始めれば想像は悪い方に向かう。

青年はスマートフォンに目を戻した。
そして彼らを思った。

これを見せたかった。いや、見せたかったと言うのは違う。ここまで来ることだけは、知らせたかった。

画面の中で議席の数字が増えていく。

彼はその数字を、勝利の数としてではなく、積み重なった選択の数として見ていた。自分たちは火をつけたのかもしれない。だが今、山を動かしているのは、国民の方だった。

感動は続いていた。ただ胸を満たしていたのは、それだけではない。

逆行はさせない。絶対に。

この国のリセットが完了するまで見届ける。
決意は揺らいでいなかった。

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郊外の団地では、別の種類の夜が進んでいた。

夕食の片づけを終えた女が、夫と並んでなんとなく選挙速報を見ていた。政治に特別な関心があるわけではない。雨野裕也の名前も、八策の中身も、断片的にしか知らない。決起の映像は怖かったし、正直、二度と見たくないと思った。

けれど、ここまで来るまで何をしていたのか、と問われれば、政府にも、役所にも、政治家にも、うまく答えられないことも分かっていた。

「すごいね、こんなに勝つんだ」

夫がぼそりと言った。女は「あら、ほんと」とだけ返した。その言い方には、大した感慨はなかった。だが無関心でもなかった。

彼女は深く考えて一票を入れたわけではない。近所で皆が言っていた。今までのままでは駄目だろう、と。スーパーでも、職場でも、送り迎えのついででも、政治の話なんて前はほとんど出なかったのに、今年に入ってからは違った。

怖い事件の話のあとには必ず、でもさ、という小さな言葉が続いた。やり方は駄目。駄目だけど、このままも駄目。そういう空気が、説明より先に生活へ入り込んでいた。

彼女はその空気に従って投票した。何か大きいことが起きているのだろうとは思う。でも、それが自分の一票のせいだとまでは、まだうまく実感できない。

それでも、今までより少しましになるのではないかという期待だけは、理由もなく、部屋の中に残っていた。

子どもが風呂場から上がってきて、「どっちが勝ってるの」と訊いた。

女は「新しい方」と答えた。

子どもはそれで分かったように頷き、冷蔵庫を開けた。その光景が、彼女には少し不思議だった。たいへんな夜のはずなのに、冷蔵庫の灯りはいつも通りで、麦茶の減り具合もいつも通りで、なのに国の向きだけが大きく変わろうとしているらしい。

人はこんなにも普通の夜の延長で、歴史の側へ入っていけるのかと、彼女はぼんやり思った。

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都心の高層マンションでは、また別の夜があった。

かつて政権与党の政策立案に関わり、いくつもの審議会に名を連ねた男が、ネクタイを外したままソファに沈んでいた。テーブルの上には手つかずの酒、ミュートにした電話、数十件の未読メッセージ。

開票速報の画面には、彼がよく知る議員たちの顔が、次々に「落選」「接戦」「比例復活も困難」といった赤い文字で塗られていく。

もう終わりだ、と男は思った。だが今夜のそれは、政局としての終わりではない。自分たちが寄って立ってきた仕組みそのものの終わりだった。

不思議なことに、完全な絶望だけではなかった。望んで始めた仕事ではなかったのである。言い訳と根回しと、責任の押しつけ合いと、結論の出ない会議と、無意味な調整と、結局は誰も責任を取らぬまま流れていく予算。その結果としての国民からの蔑み。そのすべてに、彼はずっと疲れていた。

負ければ終わる。終われば、この労働から解放される。その安堵は確かにあった。

だが、その安堵はすぐに別の感情へ変わった。自分の足元が揺らいだのである。戻るべき床が、なくなっていく。今までそこに立っていたからこそ食えていたし、話せていたし、世間に対して何者かでいられた。その床が消えたあと、自分は何になるのか。

裁かれるのか。忘れられるのか。あるいは、不要になるだけなのか。

テレビの中では、若い司会者が必死に平静を装っていた。

民主主義の結果ですから、静かに受け止めなければなりません。

その声を聞きながら、男は少し笑った。静かに受け止めてこなかったのは、自分たちの方ではなかったか。国民の生活の変化を、怒りを、失望を、ずっと数字と手続きの陰へ追いやってきたのではなかったか。

ここまで来た以上、こうなるべきだったのかもしれない。その諦めが、恐怖の底で、わずかに形を成し始めていた。

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開票はさらに進んだ。民主皇統主義派は、圧倒的な支持を得て多数を占めた。覆しようのない空気が、そのまま数字へ変わったのだった。

スタジオの空気も変わった。解説者の口調が変わった。当初は慎重に距離を取っていたアナウンサーが、やがて確定的な言葉を使い始めた。与党幹部の表情は固まり、野党の一部は勝った顔をしきれず、新勢力の会見場だけが、歓声とも沈黙ともつかない重い熱気を持っていた。

海外メディアは、ほとんど即座に言葉を与えた。

「最も静かなクーデター」

その言葉に、誰もが小さな違和感を覚えていた。
これは、そんなものではない。

「リセット」だ。

軍を掌握して行う政変ではない。だが、暴力を発端に戦後日本の統治原理を書き換えるのだとすれば、それはたしかにクーデターに近かった。
だが、そこには首謀者がいない。

それを、人々はこう呼んだ。

「リセット」

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世界は震撼した。

市場も、外交も、学界も、一斉にざわめいた。だが国内では、震撼より先に、妙な納得が広がっていた。

ああ、やはりこうなったか。そういう顔で、結果を見つめる者が多かったのである。

国民は、ただ可視化された空気を見ていたのではない。自分たちが、その空気を作ったのだと、遅れて実感し始めていた。

それは誇らしいというより、まず恐ろしかった。自分たちは、ここまで大きな転換の当事者になってしまったのか。

けれど、その恐ろしさの底に、たしかにひとつの高揚があった。軍靴も装甲車もない。多くの国民にとっての武器は投票用紙だけだった。

この一枚が国家の起動原理を覆したのだとすれば、これほど静かで、これほど広範な革命は世界に類はないだろう。

選挙戦中、沈黙を通していた皇室から、やがて簡潔な公式発表がなされた。

「国民のために、重大な役割を担う用意がある。」

それは短い文だった。だが、その短さのために、かえって重かった。政争の側へ身を寄せる言葉ではない。しかし、新しい体制の上に置かれるべき重しとして、自らの役割を引き受ける意思だけは明確に示していた。

いよいよ民主皇統主義が、観念ではなく制度として走り出すのだと、多くの者がそこで理解した。

新憲法案は一つではなかった。いくつも提案され、条文の草案が並び、基本的人権の位置づけ、天皇府の権限、議政局の構造、監査制度の独立性について、徹夜の討論が続いた。賛成も反対もあった。危険な復古主義だと断ずる者もいれば、人間の腐敗を前提にした統治設計として高く評価する者もいた。
そして桐嶋のように、全面的には支持しないが現体制の維持にも戻れないと考える者も、議論に加わり始めた。

新しい政権与党が最初に国民へ求めたのは、制度設計に対する時間だった。新憲法制定と基本法再編のための移行期間。頻繁な選挙で制度設計が中断されないための、臨時的な安定確保措置。

そのために、現国会議員の任期を六年に延長する是非を、国民投票に付すと宣言したのである。

反対派は直ちに権力延命だと叫んだ。だが、その叫びは広がりきらなかった。

国民の多くが、今回ばかりは工事の大きさを理解していたからである。いま組み替えようとしているのは看板ではない。国家の骨組みそのものだった。

法体系の再編、行政機構の整理、課税原理の変更、監査制度の独立、議会構造の変更。これほどの工事を、旧来の政争に引き戻されずに進めるには、どうしても時間が要る。

それを人々は驚くほど自然に受け入れた。熱狂していたからではない。ようやく国の向きが揃い始めた今、その向きが揃っているうちに、一気に土台を打ち直すべきだという、一種の共同意志があったからである。

雨野の八策を全部読んだ者、ましてやそれを完全に理解したものは多くなかった。新憲法案の条文比較をできる者は、なお少なかった。それでも、人々は分かっていた。

この工事は、途中で足場を外してよい類のものではない、と。

増税の時も、給付の時も、疫病の時も、この国はいつも半歩ずつずれていた。怒る者と笑う者、諦める者と損得を計る者が、それぞれ別の方向を向いていた。

だがこの時だけは違った。どこまで進めるかの差はあっても、進むべき向きだけは揃ったのである。

後に、応元維新と名付けられるこの革命は、この夜に完成したのではなかった。むしろこの夜、ようやく始まったのである。

応元。
天皇の主権への復帰を祝って定められた新元号。その名が正式に公表されるのは、まだ少し先のことだった。だが多くの国民は、まだ知らぬその名にふさわしい朝が、自分たちの方へ近づいてくるのを感じていた。

  



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