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本能寺の変1582 【重史266】 №6-234 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史266】 №6-234

はじめに ←目次 重要 ◎目次 過去記事 目次 【記事一覧】 
【五大要因】  
1 時代の風潮
 
 1戦国時代=相互不信の時代
  2美濃
  3尾張
2 光秀の実像
 
 1信長という男
  2光秀という男  1 光秀の素性 2 光秀の年齢 3 光秀の人物像
  3光秀の後継者  1 信長の後継者 2 光秀の後継者 3 明智の将来
  4 先祖の教訓
  5 大量殺戮
  6 三人の謀叛人
  7 信長の弱点
3 志向の相違 光秀の苦悩 
 
 1粛清の怖れ
  2 光秀の老い
  3 四国問題 躓き
  4 事態急変
  5 志向の相違
  6 自立への道
4 武田の滅亡
 
 1甲斐遠征
  2勝頼の首
  3武田効果
5 信長の油断 大要 概略
  
「事態急変」
  1 勝利の余韻  概略 4月21日
              4月24日
  2 四国出陣   概略 5月7日 1/3 2/3 3/3
              5月11日
  3 足蹴事件 概略 5月12日  1/5  2/5  3/5  4/5
                     5/5
            5月15日
            密室にて   1/3  2/3  3/3
                         ④ 概
                     ⑤ 概
  4 中国出陣 大 概略 備中高松城 大 概
              5月17日
            坂本にて 目次
                          
                        5 6 
              5月19日 大 概
              5月20日 大 概
              5月21日 大 概
  5 謀叛人の顔
  時は今、・・・・・
              5月26日 大 概
              5月27日 大 概
              5月28日 大 概
              5月29日 大 概
さる程に、不慮の題目出来候て、

【重要史料】 【重史全通】 【重史一覧】 【重史一覧全通】
【抜粋】
【注目ポイント】 目次
【人物】
←【粛清の怖れ】 【粛清 佐久間信盛】 【重史240】
「その一因」 目次大 概説大 目次中 
3光秀と光慶 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男
【四国問題】    目次 【四国問題 概要】   十
【足蹴事件】 【重史040】 【重史041】
←【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道
*◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
 信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別
*加筆修正

【重史266】 №6-234

①武田信玄、遠・三堺目へ動(はたら)き罷り出で候ひツ、

②四郎(勝頼)、其の例に慣らひ出張候、

③悉(ことごと)く、討ち果たし候、

④四郎、赤裸の躰にて、一身、北(に)げ入り候と申し候、

⑤数年の鬱憤を散じ候、

         「上杉家編年文書」「織田信長文書の研究」

天正三年1575、六月十三日。               1575000613 

この日、上杉謙信から書状が到着した。
謙信が、長篠の合戦の直前(五月十九日付)に、越後から送ったものである。
春日山 → 岐阜。
二十日以上を要している。

信長は、これに対して、以下の返書を送った。
結局、これが、謙信への最後の書状となった。
長文である (①~⑦) 。

織田と上杉は、この頃、まだ、友好関係にあった。

①信長は、合戦の当日(五月二十一日付)、長篠から、勝利を報せる使者を派
 していた。
 長篠→春日山。
 そろそろ、到着する頃か。
 
  去月十九日の書札、今日、披閲せしめ候、
  来意の如く、武田四郎、三・信堺目に至って動(はたら)き候条、
  即時に出馬せしめ、
  去月廿一日一戦を遂げ、切り頽(くず)し平均に属し候、
  其の趣、陣所より使者を以って申し遣はし候、
  定めて参着たるべく候、

②信長にとって、武田信玄は恐るべき存在だった。
 
  信長、畿内其の外、北国・南方の儀に付きて、取り紛れ候刻(きざみ)、
  武田信玄、遠・三堺目へ動(はたら)き罷り出で候ひツ、
  何時に候へども、手合わせに於いては、打ち果たすべく候由、
  相拵(こしら)へ候間、
  信玄、断絶(死去)候条、残り多く候ひき(残念なことである)、

③勝頼は、甲斐へ逃げ帰った。
 
  四郎、其の例に慣らひ出張候、
  誠に天与の儀に候間、思惟浅からず、取り懸け、
  悉(ことごと)く、討ち果たし候、
  四郎、赤裸の躰にて、一身、北(に)げ入り候と申し候、
  大将分の者どもさえ、□に死候、
  此の外の儀は、数を知らず候、
  様子に於いては、其の隠れ有るべからず候、
  数年の鬱憤を散じ候、

④岩村城は、落城寸前である。
 
  次、信・濃の堺目、岩村と申す要害、甲州より相抱へ候条、
  取り巻き候、
  種々、懇望せしむと雖も、攻め殺すべく覚悟に候ところ、赦し候、
  五、三日中に落居たるべく候間、然らば、信州に至って出勢すべく候、

⑤信長は、謙信に、今こそ信濃・甲斐へ攻め入る好機だ、と言っている。
 
  連々、其方より承り候儀も候条、
  此の節、信・甲に至って行に及ばるべきの儀、幸の時分に候歟、

⑥家康は、駿河へ乱入し放火した。
 
  家康は、駿州へ相動(はたら)き、伊豆堺まで放火候、
  今川氏真、□居すべく候、

⑦信長と謙信。
 二人はともに四十代。
 信長は、天文三年1534の生れ、四十二歳。
 謙信は、享禄三年1530の生れ、四十六歳。
 信長が、さらに一歩先んじた。
 謙信の心中や、如何に。

  兵粮、未だ出来せず候間、士卒のため、先ず納馬候、
  来秋、重ねて動くべく候、

  猶以って、其の口の事、御油断なく御過ごし専一に候、
  恐々謹言、

      六月十三日             信長花押
       不識庵
          進覧之候
             (「上杉家編年文書」「織田信長文書の研究」)

 なお、参考までに二人の享年について記す。
 信長 天正十年1582 没 四十九。
 謙信 天正六年1578 没 四十九。
 ともに、道半ば。
 突然の死であった。


 【引用】



 ⇒ 次へつづく


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