舌上の絶望
部室はうだるような暑さだった。
そこに来て、二浪二留の四年生だの、二日酔いの三年生だの、どういうわけだか揃いも揃って汗にまみれた男どもがぎゅうぎゅうに詰め込まれているのだから、たまったものではない。
僕はガムテープ製の猫を抱き、古き良き白いベンチに腰をおろした。
僕もまた、その詰め合わせの一部になった。
座り心地は、極めて悪い。
「律、飯食った? 違うか。食ってる?」
先に座っていた悠太が、フルーツグミの封を切ろうと肘を張った。
互いの汗で、肌がすべる。
「食べてるよ。」
「嘘つけ。見るたび痩せ細ってくじゃん。」
あーんして、と半ば子どもにでも話しかけるような声で促され、僕はほぼ反射的に口を開けていた。
「酸っぱ……」
舌の皮が薄く収縮していく。
急所を突かれてもなお、逃れようと必死に身を捩るかの如く。
サーキュレーターが粘稠性の空気を捏ね回し、いよいよ不快指数の限界を突破しそうになっている。
「あー、暑。」
悠太は伸び過ぎた襟足を掻き上げ、仰ぐように動かした。
甘ったるい匂いが漂って来る。
何の前触れもなく悠太が屈んだ。
甘さはより一層濃くなった。
「あった。」
嬉しそうに輪ゴムを摘み上げると、床に落ちていた埃まみれのそれで襟足を括り始めた。
舌の軋むような痛みから解放された僕は、恐る恐る物体を転がしてみる。
鼻に抜ける香りと、味覚との齟齬で眩暈がした。
「苦……」
「またそれ言う?」
彼は袋から薄紅色のハートを取り出すと、二粒まとめてひょいと口へ放り込んだ。
「甘いけどな。」と腕を組む。
僕は味覚通りの表情に、無責任な笑顔を重ねた。
誰が流し始めたのか、絵の具まみれのスピーカーの向こうでピートとカールが歌っている。
重なりもつれて、真ん中に立つスタンドは気が気じゃないだろうな……
痺れた舌で、でたらめな英語を口遊んだ。
僕は自分の体温に等しいであろうジャスミン茶で苦さも笑いも、痺れをも飲み下そうとした。
舌はまだざらついている。
「お。当たり……」
悠太の指に摘まれていたのは、星を模ったグミだった。
窓から入る白い光を受け、ザラメのような結晶がキラキラと輝いていた。
どういうわけだか僕はまた、苦さに身悶えしている。
「うわ……お前、マジないわ。それは麗先輩にとっとくべきだろ!」
僕の隣の隣、つまりは悠太の隣でジャンプをめくっていた謙一郎が叫んだ。
「えー、なんで? 俺のなんだから、どうしようと俺の自由でしょ。」
悠太は謙一郎の口にもグミを突っ込んだ。
「俺の?」
謙一郎は納得いかぬとでもいいたげに目尻を引き攣らせる。
「そうじゃん。だって今、そこのセブンで買ったんだもん。俺が。ほら、レシート。」
たしかに、五分前の時刻が印字されている。
それに、大学構内のコンビニだ。
購入品も一致している。
「いや……買ったのはお前かも知んないけど……」
「ゆうたん、うちにもちょうだい!」
溶けたわたあめみたいな声が、謙一郎の言葉を絡め取った。
停滞する粘っこい空気に満たされた部室を、別ベクトルでベトつかせる。
「はーい、なっちゃん。あーんして。」
「んー、おいし! ねえ、りったん。桃のお星さまおいしかったあ?」
「は……はあ……まあ、うん……悪くはないんじゃないかな……」
嘘だ。
形はなんであれ、苦いものは苦いのだ。
「うち、まだ星形、出会ったことないんだよね。」
「そ、そっか……」
「りったん。なんか、今日冷たくない?」
なら、僕にも言い分がある。
このクソ暑いのに、欲望のぬるまった液体的な質感の声はいかがなものか。
というのは建前で、今の今まで彼女の存在に気づいていなかったとはとてもではないけれど、言い出せなかった。
僕はねこから手を離した。
心なしか、ぐったりして見える。
自分越しに甘々しいグミ運びを見せつけられた謙一郎は、恨みがましくペットボトルの蓋を回す。
ペタロイド型の底をしたボトルからは、なんの音もしなかった。
──気の抜けたサイダーは、砂糖水に等じ
と、謙一郎が詩人ぶってノートに書きつける。
相変わらず、悠太は名付けの通りに悠々と悠然とこの部室内の見えない波を乗りこなしている。
ぶつぶつと恨み節を並べる謙一郎の隣で、はいはい、と軽快に相槌を打っていた。
「いや、君らさ、あたかも俺が貢がせてるみたいな言い方するけど、ギヴ・アンド・テイクはちゃんとしてるんだよ?」
「たとえば?」
「うーちゃんがバイトから帰ってくるでしょ?」
「うん。」
「スーパーのレジだから立ちっぱで足浮腫むって言うから揉んであげたり……」
「ほお。」
「いや、それお前……」
どういうわけか、佐藤先輩が手を戦慄かせ、息を荒げる。
その手を二浪二留が両手で包み込み、太ももへ置かせた。
隣の部室で「おお、ロミオ……お前はどうして……」と始まってしまい、二日酔い男がむっくり起き出して壁をひと殴りした。
もちろん、お返しの一撃が加えられた。
脆い壁は今にも崩れそうである。
不覚にも肝が冷えた。
二日酔いの身体から湧き立つアセトアルデヒドの匂いと肝冷えとで、背中がじっとりと濡れる。
嫌な熱の奪われ方をした。
僕は唾を飲み込みつつ自分の肩を抱いた。
上昇性の身慄いに意識を奪われかけた。
「それから、うーちゃんは髪乾かすの嫌いだから俺がドライヤーかけてあげてるし。」
「うん。」
「あとほら、こないだなんてシェイクスピアの翻訳の課題……」
それは僕が先週この人にたのまれたやつだ。
どうして経営学部がシェイクスピアなんて……と思ったけれど、そういうことだったのか。
これじゃあ僕はヒモの下請業者みたいなものじゃないか……
──ご・め・ん
合わせた手と口の形で彼は謝罪した。
僕はただ、首を横に振った。
「それに、今朝のうーちゃんのお弁当、俺が作ったんだよ。梅のおにぎりと、卵焼きと……」
指折り弁当箱の中身を数え出した時だった。
「あれー、満員?」
建て付けの悪い扉が軋り唸った。
カンッとヒールの音が止まる。
だらけ切った粘っこい空気は、濁流の如く開け放たれた扉の外へと流れ出ていく。
僕は、床を埋め尽くす正体不明のあれこれが全て洗い流される妄想に浸った。
どうにも恍惚として、口の端から涎が垂れているような気すらする。
ぼんやりと眺める。
さながら女王様とひれ伏す奴隷ども、といった様相だ。
きっと、僕も奴隷の中の一人なのだ。
「律、どけ。」
鳩尾を抉る、温度も音調も低い声がした。
顔を上げると、とんでもない形相をした瓜田先輩が立っている。
部室前の壊れた教卓で眠っていたはずでは……?
眠れる獅子は勝手にお目覚めになったらしい。
「何ごちゃごちゃ言ってんだよ。」
「え、あ……なにも……」
とっ散らかった頭のまま、僕はベンチから引き摺り下ろされた。
すると、奥の方から芋蔓式に次々とむさ苦しさの元凶が床へと移動した。
ゆうたはちゃっかり麗先輩の隣に陣取っている。
ぱちん、と弁当箱の留め具の外れる音がして、遠足か社会科見学か、そんなことを彷彿とさせる匂いが漂って来た。
「えー! ウインナーがたこさんになってる、かわいい!」
「ふふ、そうだね。なっちゃん、おひとつどうぞ。」
「えっと、大丈夫です。」
でしょうね、と言いそうになって僕は口を押さえる。
なに、つわり?などと僕の性別をどうにか捻じ曲げてしまったようなことを言う二日酔いの植草先輩に肩を組まれ、僕はうなだれる。
「りんごがうさぎさんになってるー! かわいい!」
「食べる?」
「んー。やめときます……私、お菓子しか食べられないので……」
僕は彼女の食生活を知っている。
思い出すたびに嘔吐くので、極力考えないようにしている。
でも──
「なっちゃん、かわいすぎ、たまらん!」
麗先輩は、なっちゃんを撫でまわし抱きしめる。
なっちゃんの顔が、埋もれて苦しげな息が漏れた。
それを余裕綽々に眺める悠太と、僕の隣で頭を掻きむしる謙一郎の温度差で風をひきそうだった。
「何、ケンチ、苛立ってんの?」
「違います。」
謙一郎が先輩に敬語を使っている。
僕は期待を込めて窓の外へと眼を遣った。
薄汚れた窓ガラスからは、夏の日差しが歪みながら垂れ込めている。
夥しい数の指紋を浮き上がらせて。
「ならば君たちにはこのLOVEずっきゅん的なハート型を進ぜよう。」
悠太はいかにも稀少、といった顔で言ってのけたけれども──
「ハートはデフォだから。」
「なんか、いやだな。ハートはデフォって。」
僕は今、言葉を失くしたような心許なさの中を漂う。
相対性理論が実感を持って理解できないのとわずかに似ている。
へんてこになった頭で、へんてこな理論を捏ねくり回した。
再び閉められた扉の内側の空気はまた、刻一刻と粘性の音を立て、澱み始めている。
隣の部室でロミオとジュリエットがハッピーエンドを迎えた。
よくできたイミテーション。
僕は力のない拍手で祝福するのだった。
習作です。
↑
これとか、
↑
これの仲間のお話です。
↑
これまた【習作】。
短い話を積み上げ一本の短編に。
↑
こちらは恋愛小説。
↑
次の朝ドラもたのしみですね。
こちらは大正時代のお話。
↑
元素記号で?
↑
【エッセイ】
菊池寛と銀座で飯食った時の話。
いいなと思ったら応援しよう!
よもぎちゃーん!
はーい!
何が好き?
ポテトチップスよりも
お・ぬ・し