連載小説 『小論文は、つらいよ』 第1話 さくら参上
【あらすじ】
高校に赴任したばかりの私は、なぜか先輩女性教師、河谷先生に観察されているようで落ちつかない。そんな中、専門外の小論文夏期講習を任された。職員室では「生徒の人気取り」と反発されて孤立。救いは、ほんわか優しい田村先生だけ。ところが講習初日、生徒から「中にスパイがいて、先生を調べてるらしい」と耳打ちされる。そのスパイの担任がまさに河谷先生。疑惑は確信に変わった。ところが講習最終日、田村先生に誘われて行った浅草の鰻屋で、すべてが逆転する。語られた過去と真実……
【本文】
私は二十三歳、独身。
桜の舞い散る四月の朝、都内の台東区にある私立青草高校の三年A組の教室で、私は生徒たちの前に立っていた。緊張からか、手のひらが少し汗ばんでいた。
早稲田大学で日本語日本文学コースを履修した。この春、この青草高校で現代国語の教師として教壇に立つことになった。教員に採用されたことを友達に話したら、「あぁ、例のアホくさ高校ね」と馬鹿にされてしまった。大学や専門学校に進学する者は、全校の一、二割程度しかいないそうだ。
先ほどより、生徒たちの頭上を通りこしてくる冷たい視線が刺さるようで痛い。同じ教科の先生方が授業見学をされている。授業見学と言えば耳触りは良いが、観察と言ったほうが当たっている。
「そうよ。人生は勉強よ」
緊張を解きはらうかのように、そうつぶやくと、教卓の前で私は深呼吸した。「なめられちゃいけない。精神的優位に立たなければ」と、言葉にならない声で、暗示をかけた。そして生徒たちの視線が集まる中、私は、大きな声とともに、腕を胸の前で広げた。
「みなさーん、お疲れさまでございます」
生徒たちがざわめいた。
「わたくし、姓は車、名はさくらと申します。エンジンのついたクルマに、春に咲くサクラです。人呼んで『フーテンのさくら』と申します。生まれも育ちも葛飾柴又、帝釈天で産湯を使い、ウソピョンピョンうさぎ。ホントは練馬の病院生まれ。大学卒業まで練馬の実家暮らしで親のスネかじり」
一気呵成にしゃべった、昨夜のプランどうりに。大学のコンパでよく使っていた自己紹介のセリフだから、滑らかに口をついて言葉が出てくる。
教室は静まりかえった。
勝ったと思った。精神的優位に立てたんだと。私はこのクラスをコントロールできると。
「えー、今年度より、みなさんの現代国語を担当させていただきます。『そうよ、人生は勉強よ』。これが私の信条でございます」
私は、得意げに胸を張った。
「現代国語なんて、コツさえつかめば朝飯前。私にお任せください。みなさんの成績を必ずやアップさせます」
この発言にポカーンと口を半開きにしている生徒がいた。
教室の後ろの方にいた男子生徒のつぶやきが、かすかに耳に届いた。
「なんか、やばい先生が来たぞ……」
「でも、面白そうじゃん」
女子生徒が小さく笑っている。
私はそれを意に介さず、さらに言葉を続けた。調子に乗りすぎたかもしれない。
「みなさん、私と一緒に頑張りましょう」
授業終了後、河谷先生が近づいてきた。四十代の女性教師だ。どこか冷たく、近寄りがたい印象の目をしている。
「とても興味深い授業でした。車先生の指導法、とても参考になります」そう言いながら、河谷先生は手帳に目をやった。社交辞令だ。その目の動きでわかる。「あ、そうですか」と軽く返した。教科が同じだから、指導法の研究をしているのかもしれない。いや、私の粗探しに違いない。
「『フーテンのさくら』の自己紹介、生徒たちの反応が良かったですね。私も真似させていただこうかしら」
私には、嫌味にしか聞こえなかった。一目でそれとわかる作り笑いを浮かべている。
「また機会があれば見学させてくださいね。同じ教科の教師として、とても勉強になります」
「はい、喜んで」とは応じたものの、河谷先生の本心は想像がつく。私の品定めだ。
その日の放課後、職員室で資料整理をしていると、田中先生が声をかけてきた。かなり年配の女性教師だ。
「車先生、お疲れ様。今日は、初めての授業で緊張したでしょう。河谷先生も見学に来てたのね」
「はい、同じ現代国語ですから」
「そうそう、河谷先生ベテランだから。車先生のこと、きっと心配してくださってるのよ」
心配? その言葉が、かえって私の不安をかき立てた。あの作り笑いを浮かべた冷たい目を想像すると、とても私のことを心配しているだなんて思えない。私から授業のテクニックを盗み、私が不都合な存在であれば、早めにつぶしてしまおうと考えているんじゃないんだろうか。
これは私の被害妄想だろうか。いや、安易に信用してしまっては、ひどい目を見ることになる。何事も疑ってかからなければ。世間は甘くない。正直者ほど騙されやすい。そうした実態を私は知っている。
でも、……もしかしたら本当に心配してくれてるのか。私の考えすぎで、河谷先生は親切な先輩教師なのかも。そんなふうに思いなおそうとしたが、あの冷たい目と作り笑いがどうしても頭から離れなかった。
授業にも慣れたころ、こんなことがあった。ふと廊下のほうに目をやると、窓越しにじっとこちらの様子を伺ってる姿に気づいた。河谷先生だった。手帳に何やらメモしていた。目が合うと、スッと廊下の奥へと消えていった。
桜から新緑へ、そして梅雨を飛びこえて、夏の陽射しが校舎を照らす季節になった。最初は戸惑っていた生徒たちも、今では私の授業を楽しみにしてくれている。授業内容そのものというよりは、授業の間に挟む世間話が面白いからなのだろう。三ヶ月という期間は、新米教師の私にとって濃密な日々だった。
教室運営の自信も少しずつ芽生えてきていた。授業中にトイレを理由に抜けだす生徒は、ほとんどいなかった。
夏休みを前にした七月のある日のことだった。職員室で、教頭から声をかけられた。突然の依頼だった。夏休みの特別講座「小論文集中講習」の講師という大役だった。
「車先生、大学で日本語日本文学コースを履修されていたということで、ぜひお願いしたいのですが。先生の授業は、生徒の評判がとても良いものですから。評判の良い授業が広まれば、来年度の生徒募集にも大きく影響しますので」
そう言われてしまえば、断るわけにはいかない。生徒の期待にも応えてやりたい。そんな気持ちが、心に芽生えた。
「はい、喜んでお引き受けします」
自分が高い評価を得ているのだと思うと、うれしくて叫びたい気持ちになった。
何気なく目をやると、職員室の片隅で、私をじっと見つめる目があった。河谷先生だ。視線が合うと、何事もないかのようにスッと視線を外した。
この時の私は、まだ知らなかった。経験不足ゆえに知る由もなかった。現代国語と小論文では、全く勝手が違うことを。そして、この安請け合いが、やがて予期せぬ苦労を引きおこすことを。そして何より、職員室の片隅から私を見つめる、あの視線の意味も。
【続きの章】
