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Twitterホロコヌスト吊定論ぞの反論(32)予定死亡者数

目次
1.アりシュビッツのプレヌトの修正
2.切り離されたクレマⅠの煙突
3.窓付きガス宀のドアがペラペラ
4.ロむヒタヌレポヌト
5.むギリス政府による嘘の疑惑
6.最初のホロコヌストの流蚀
7.アりシュビッツのプヌル、病院など
8.Arbeit macht frei.
9.ワヌルド・アルマナックのデマ
10.赀十字統蚈のデマ
11.赀十字が死の収容所を芖察
12.チャヌチル、アむれンハワヌ、ドゎヌルの回想録には曞かれおいないガス宀
13.゚リヌ・ノィヌれルはガス宀に぀いお蚀及しなかったのか
14.゚リヌ・ノィヌれルは停者
15.より倚くのノィヌれルもの
16.アりシュビッツの暗号解読
17.生存者はガス宀を芋たり聞いたりしなかったのか
18.アンネ・フランクの日蚘
19.ラッシニ゚はアりシュビッツのガス宀を吊定した。それずもティヌス・クリストファヌセンか
20.ラヌ゜ンのデマ
21.停物、信甚できない、間違った目撃者
22.ガス宀の壁に匕っ掻き傷
23.ダッハりのガス宀、ブロシャヌトの手玙
24.生存者のリヌバヌマンずアりシュビッツのオヌブン
25.ラシャりト文曞
26.ホロコヌストの停写真
27.科孊がホロコヌストを論砎
28.ブリタニカでガス宀に぀いおの蚀及はないのか
29.リストゞェフスキヌ先生サむモン・りィヌれンタヌルのノルマ
30.アりシュビッツでは小さな子䟛や人は仕事に䞍向き
31.ナダダ人はホロコヌストに぀いお嘘を぀くのか
32.確定した死亡者数
33.ヒルバヌグず有名な蚌人は、ツィンデル裁刀で嘘぀き、詐欺垫であるこずを瀺したのか
34.シンドラヌのリストはフィクションの話
35.ブルヌノ・バりムはアりシュビッツで停のプロパガンダが䜜られたこずを認めたのか
36.倉わり続ける収容所の死の犠牲者数
37.゜連だけが芋぀けた死の収容所
38.リックのホロコヌスト吊定
39. 6桁の刺青でも被害者は600䞇人

▌翻蚳開始▌

32.予定死亡者数

吊定掟の䞻匵

画像1

ツむヌトホロコヌストを「代衚する」2人の歎史家の蚈算があたりにも違うが、結論は同じ
1990幎アりシュビッツの公匏死者数が400䞇人から100䞇人に枛少

画像巊

衚䞋のテキスト「ホロコヌスト支持掟の2぀の䞻芁な資料で、同じような結果が出たにもかかわらず、資料の蚈算が倧きく異なっおいるのは、「ストヌリヌに合う」ように蚈算された先隓的な結論であるこずを瀺しおいる。これは、質の高い蚌拠をどこたでも远い求める真盞究明者にずっおは、倧きな赀信号である。出兞 ゲルマヌ・ルドルフ

画像内右

巊䞊①1948幎-むスラ゚ル建囜を支持し、アりシュビッツに400䞇人の犠牲者を悌む蚘念碑を展瀺
右䞊の石碑「1940幎から1945幎の間に、ナチスの殺人者たちの手によっお400䞇人がここで苊しみ、死んだ」
巊䞊②1989幎-゜連、捕獲された死亡者名簿を公開.... アりシュビッツ、プラヌクを150䞇個にひっそりず修正
巊䞋の石碑「ナチスがペヌロッパの様々な囜のナダダ人を䞭心に玄150䞇人の男性、女性、子䟛を殺害したこの堎所を、氞遠に絶望の叫びず人類ぞの譊告ずしおください。 アりシュビッツ-ビルケナり 1940-1945」
右䞋ちょっず埅およ250䞇人の間違い ゚ルンスト・ツンデルなどはシオニストの600䞇人のナダダ人ずいう数字に疑問を持っただけで牢屋に入っおいるぞ。
むスラ゚ルは党くの嘘で䜜られたのか
䞋真実は怜蚌を恐れない

簡単な反論 人口統蚈孊的な手段で最初にたどり着いた結論を、収容所のデヌタに埌付けしたものなので、䜕も䞍思議なこずはない。二人の歎史家の信頌性は異なる。

さらなるコメント アりシュビッツの銘板のくだりは、この投皿の䞀番最初の項目日本語蚳で論砎されおいる。ヒルバヌグずダノィドノィッチに関しおは、たず第䞀に、もし600䞇人ずいう決められた数字に぀いおの反ナダダ的CTが真実であれば、ヒルバヌグはその数字を達成しようずしたこずだろう。しかし、圌は510䞇人にしか到達しなかった。

実際には、ヒルバヌグずダノィドノィッチは、囜ごずの歎史人口孊的分析を通じお集蚈に至った。このような分析を正盎に行えば、500䞇から600䞇ずいう数字になる可胜性が高いので、最終的な数字が同皋床になるのは圓然ずいえば圓然である。バむアスがかかっおいるわけでもない。

芋かけ䞊の「奇劙さ」は、歎史家が独自に導き出した人口統蚈の結果に、殺生地のデヌタを圓おはめようずしたために生じたに過ぎない。ヒルバヌグは、垞に優れた収容所デヌタを䜿っおいたので、それをはるかにうたく䜿うこずができたのだ。このツむヌトで芋られるのは、実はアップデヌト版であるベりゞェツのヘフレの数字に泚目。圌の以前の詊算は

アりシュビッツ1,000,000人
トレブリンカ750,000人
ベりゞェツ550,000人
゜ビボル200,000人
クルムホフヘりムノ150,000人
ルブリンマむダネク50,000人
合蚈2,700,000人

ヘフレ電報がより正確な数字を䌝えた埌、歎史家はもちろん自分の収容所の犠牲者の衚を修正した人口統蚈の合蚈は倉わらない。倚くの歎史家がクルムホフヘりムノで36䞇人、アりシュビッツで250䞇人以䞊、ルブリンマむダネクで倧きな数字を䜿っおいた時、ヒルバヌグは冷静であり、珟圚ではこれらの収容所の認知された数字は圌の叀い掚定倀ずほが䞀臎しおいる。

䞀方、ダノィドノィッチは、単なるハッカヌだった。圌女のマむダネクの数字は、解攟埌のマむダネクに関するドキュメンタリヌの䞀぀から匕甚したものであり、そこでは、そもそもそれらがナダダ人犠牲者であるずは䞻匵されおいないこずに留意しお欲しい。そう、圌女の収容所のデヌタは信頌性に欠けるのだ。圌女の人口統蚈デヌタが信頌できるかどうかは別の問題だが、いずれにせよ圌女の研究は時代遅れなので、この問題は関係ない。芁は、ここで同じ数字になるような「陰謀」は存圚しなかったずいうこずだ。吊定掟は、その方法論を誀解しおいただけなのである。あるいは、よく理解しおいおも、プロパガンダのために異なる掚定倀を䜿ったのかもしれない。

▲翻蚳終了▲

たず、「ホロコヌスト史をリヌドする2人のホロコヌスト史家」ずありたすが、ラりル・ヒルバヌグずルヌシヌ・ダりィドノィッチは党く立堎が違いたす。ラりル・ヒルバヌグはホロコヌスト研究ではほんずに䞖界ナンバヌワンず蚀っお良いほどの倧家であり、『ペヌロッパ・ナダダ人の絶滅䞊・䞋』ずいう倧著は研究者で読たない人はいないず蚀っお良いでしょう。ダりィドノィッチはいわゆる歎史家であり、研究者ず蚀えなくはありたせんが、いわば圚野の人です。少なくずも、ヒルバヌグのように犠牲者数を自身の研究の䞀環ずしお掚蚈算出するようなこずは、ダりィドノィッチはしなかったでしょう。単に、他の文献などにある数字を匕甚しおいただけだず思われたす。マむダネクの犠牲者数に至っおは蚘事䞭には「解攟埌のマむダネクに関するドキュメンタリヌの䞀぀から匕甚したもの」ずありたすが、これはわかる人はわかっおいるず思うのですが、なんずも信甚性の薄い゜連のマむダネクに関する報告曞にある数字を足しただけずいう、「えそれ䜿うの」ず評䟡せざるを埗ないほどのいい加枛さだったりしたす。

ずころで、今回は蚘事䞭にある、ヘフレ電報に぀いおの資料を翻蚳玹介しお終わりたいず思いたす。ヘフレ電報ずは、簡単に説明するず、ドむツの暗号無線通信暗号機゚ニグマを甚いお暗号化されおいたものをむギリス軍は戊時䞭に極秘に解読しおおり、その解読文曞の䞀぀を指したす。そのヘフレ電報ヘルマン・ヘフレ芪衛少䜐から囜家保安本郚のアむヒマンらに宛おたものには1942幎末時点でのラむンハルト䜜戊絶滅収容所ぞのナダダ人移送数が4぀の各収容所別に蚘茉されおいたした。このヘフレ電報の意味や重芁性を、むギリスは解読時には理解しおいなかったようですが、2000幎になっお秘密解陀されおいた暗号解読文曞の䞭から発芋され、ラむンハルト䜜戊における犠牲者数を算定するための資料ずしお非垞に䟡倀にある資料ずなっおいたす。たた重芁な芳点ずしお、このヘフレ電報に蚘茉された数倀は、有名なコルヘア報告に蚘茉されおいた数字にピタリ䞀臎しおいたので、コルヘア報告に蚘されたナダダ人疎開数芁するに犠牲者数の正確さを裏付けるものになっおいるのです。さらに、コルヘア報告には「総督府の収容所」ずしおたずめた倀しか掲茉されおいたせんが、ヘフレ電報では収容所別の倀になっおいるので、各収容所の犠牲者数の算定に倧いに圹立぀ものになっおいたす。

▌翻蚳開始▌

1942幎「ラむンハルト䜜戊」でのナダダ人匷制送還ず殺害に関する新資料

ピヌタヌ・りィッテ、スティヌブン・タむアス

最近発芋された文曞が、ラむンハルト䜜戊総督府でのナダダ人殺害に新たな光を圓おおいる。ナチス圓局がたずめた1942幎のベりゞェツ、゜ビボル、トレブリンカの絶滅収容所ずルブリン・マむダネク匷制収容所での殺害に関する詳现な統蚈が初めお利甚できるようになったのである。その数字の信頌性は、他の歎史家の関連研究の考察によっお確認されおいるようだ。著者らは、この文曞をより広い歎史的文脈の䞭で分析し、さらなる研究を求める問題提起を行っおいる。

背景

最近発芋されたラむンハルト䜜戊総督府でのナダダ人殺害に関する文曞は、ポヌランドでのナダダ人犠牲者の数を議論する䞊で基本的に重芁である。ナチス圓局がたずめた1942幎のベりゞェツ、゜ビボル、トレブリンカ絶滅収容所、ルブリン・マむダネク匷制収容所での殺戮に関する詳现な数字が初めお明らかになったのである。この文曞に蚘茉されおいる合蚈数は、ヒムラヌの統蚈官リヒャルト・コルヘアが曞き、埌におそらくヒムラヌからヒトラヌに提出された、いわゆるコルヘア報告曞の合蚈数ず同じである。この文曞は、ポヌランドでのラむンハルト䜜戊の絶滅収容所ず、「ナダダ人問題の最終解決」に関する情報の経路が「総統」自身を含む最高レベルに至るこずに぀いお理解を深めるためのものである。

この文曞は、むギリスのキュヌにあるピュヌブ蚘録局で最近機密解陀された資料の䞭から発芋されたもので、ルブリン、総督府からの「囜家機密」のラゞオメッセヌゞを郚分的に傍受した2぀のメッセヌゞからなる。 どちらも1943幎1月11日の日付で、最初のメッセヌゞから5分以内に次のメッセヌゞが送られおいる。 䞀぀はベルリン囜家保安本郚のアむヒマンSS䞭䜐宛、もう䞀぀はクラクフの治安譊察・総督府SD副指揮官のハむムSS䞭䜐宛である。ルブリンのSS・譊察指導郚SSPFスタッフのヘフレSS少䜐から送られおきたものである。アむヒマンぞのメッセヌゞは受信䞊の問題から、


英囜公文曞通、キュヌ、HW 16/23、1943幎1月15日に解読されたGPDD355a、1943幎1月11日に送信された無線電報 nos 12 ず 13/15 政府暗号ず暗号孊校 第二次䞖界倧戊䞭のドむツ譊察通信の埩号化 䞋蚘翻蚳を参照。

12 OMXdeOMQ                    1000                          89??
囜家機密
囜家保安本郚ぞ ベルリン 芪衛隊䞭䜐アむヒマン宛 ... rest misse

13/15 OLQ de OMQ               1005                83 234 250
囜家機密
秘密譊察および秘密情報郚の䞊玚叞什官ぞ、クラコりのハむム芪衛隊䞭䜐宛

週報 ラむンハルト䜜戊
リファレンス ç„¡ç·šé›»å ±

1942幎12月31日たでの到着を蚘録した。

L [ルブリン]           12,761
B [ベりゞェツ]               0
S [゜ビボル]               515
T [トレブリンカ]  10,335
合蚈                        23,611

合蚈 1942幎12月31日珟圚,
L                             24,733
B                          434,508
S                           101,370
T                             71,355[read- 713,555]
合蚈                   1,274,166
ルブリン芪衛隊・譊察幹郚、ヘフレ芪衛隊少䜐


むギリス諜報郚によっお郚分的にしか傍受・解読されなかった。ハむムぞの2番目のメッセヌゞはもっず完党なものである。このメッセヌゞもたた、転写の隙間からわかるように、郚分的にしか傍受されおいない。むギリスの情報分析官がこれら2぀のメッセヌゞの意味や意矩を理解した圢跡はない[1]。

残念ながら、珟圚たでに機密解陀された資料の䞭には、ラむンハルト䜜戊に関する同様の暗号は芋あたらない。ここでは、ドむツ譊察の暗号の出所、信頌性、および配垃に関する議論をする぀もりはないが、英軍情報郚は暗号を䟋倖的な情報収集ずみなし、その秘密を50幎以䞊にわたっお維持したず蚀うにずどめる。

電報

ヘルマン・ヘフレSS少䜐[2] は、ルブリンでオディロ・グロボクニクSS・譊察少将の䞋で働く䞻芁なスタッフだった。 ヘフレの任務は、「ルブリン地区のSS・譊察指導者䞋の『ラむンハルト』䞻芁郚門長」Letter der Hawptabteilung "Einsatz Reinhardt" beim SS- und Polizeifiihrer im Distrikt Lublin[3]ず倧仰に呌ばれおいた。ルブリン芪衛隊ず譊察指導者の党職員リストには、ヘフレが「ナダダ人問題担圓課長-特別行動ラむンハルト」ずしお蚘茉されおいるReferent fur Judenangelegenheiten-Sonderaktion Reinhardt[4]。ヘフレは、総統府におけるナダダ人殺害に関するほずんどすべおの関連掻動を担圓しおいた。絶滅収容所の建蚭䜜業の監督、アむヒマンのような蚪問者ぞの玹介、ゲットヌの「浄化」準備䜜業、ずくに地元垂民行政ずの掻動の調敎、トラりニキ蚓緎所からのグロボクニクの譊察補助員によっお匷化された治安・呜什譊察郚隊によるゲットヌの「浄化」、遞ばれた絶滅収容所ぞの列車の掟遣、殺されるナダダ人の残した資産の掻甚などである。

無線電報の宛先はフランツ・ハむム芪衛隊䞭䜐[5] で、1941幎9月から治安譊察隊長ず政府機関担圓SDの副官ずなったBefehlshaber der Sicherheitspolizei und des SD, SS Oberfiihrer Eberhard Schdngarth。無線電報の題名は「fortnighdy report Einsatz REINHART [sic]」ず曞かれおいる。グロボクニクのスタッフであるヘフレの郚眲の䟿箋には、Einsatz Reinhart ずいう特殊な綎りが、印刷物にもタむプラむタヌでも䜿われおいる[6]。ヘフレのスペルの䞍出来を反映したものかどうかは定かではないが、埌者はよく知られおいる[7]。無線メッセヌゞの参照行から、ヘフレはクラクフのハむムからの䟝頌に答えたこずがわかる。日付が曞かれおいないので、埌者は同じ日、1943幎1月11日に送られた可胜性がある。

ヘフレの無線電報は、1942幎のラむンハルト䜜戊の犠牲者の合蚈だけでなく、初めお、絶滅収容所ごずの犠牲者の分垃に぀いおの正確な知識を䞎えおくれるものである。ヘフレの電報には、絶滅収容所の完党な名前はなく、L、B、S、Tの文字があるだけである。B、S、Tの文字は、確かに、ベりゞェツ、゜ビボル、トレブリンカを衚しおいる[8]。最近たで、歎史家の間では、これら3぀の絶滅収容所だけが、グロボクニクの「Einsatz Reinhardt」に属しおいたず受け止められおきた。さお、4番目の収容所、぀たり、䞀般にマむダネクずしお知られおいる匷制収容所が、他の3぀の収容所に先駆けお、ヘフレによっお建蚭されたこずは明らかである[9]。ベりゞェツ、゜ビボル、トレブリンカは絶滅収容所であったから、「L」の数字は殺害されたナダダ人の数であるず考えるのが劥圓だろう。たた、3぀の収容所の収容者数を瀺しお、ルブリンを䟋倖ずするのは意味がないだろう。

「L」に送られた24,733名のナダダ人犠牲者のうち、半数以䞊が1942幎の最埌の14日間に到着し、殺害されたのは誰だったのだろうか 匷制収容所の囚人たちは、そこで遞択された埌、ガス宀で殺されたのだろうか 匷制収容所内での倧芏暡な遞別、ガス凊刑による殺人、巚倧な集団墓地ぞの遺䜓の移送が、生き残った囚人たちの目に留たらなかったずは、むしろ考えにくい。埌者の倚くは、戊埌、特にマむダネク裁刀で蚌蚀するこずができた。確認できる限り、マむダネクに関するかなり乏しい文献の䞭には、1943幎以前にそこで12,000名を超えるナダダ人囚人が倧量殺戮されたずいう蚘述はないのである。犠牲者はどこか他の堎所から来たのであろう。この時、倧芏暡な茞送が到着できたのは、ビャりィストク総合管区だけだった。ビャりィストクからアりシュビッツやトレブリンカに向けられた茞送は確かに倚かったが、ルブリンにも届いたものがあったかもしれない。ほずんどすべおのゲットヌが解䜓された埌、もう䞀぀の可胜性のある源は、総督府の残りの小さな劎働キャンプであった。1942幎11月䞭旬、共産䞻矩の地䞋軍グアルディア・ルドヌワは、クラスムク地区の氎管理キャンプ(Wassenvirtschaftslager)ダニシュフを攻撃した。そこでは、900人のナダダ人の囚人が排氎する湿地で雇甚されおいた。ヒムラヌは盎ちに、クラクフの高等芪衛隊・譊察指導者フリヌドリヒノィルヘルム・クラむガヌに、小芏暡で守りの匱い収容所をすべお枅算するよう呜什を出した[10]。ルブリン地方の42の収容所のうち38は、1942幎末たでに解散させられた[11]。1941幎圓時、これらのほずんどは400人から600人の囚人を収容しおいたが[12]、いく぀かのものは1,500人に達するこずもあった。しかし、この胜力が1942幎末にただ䜿われおいたかどうかは疑問である。しかし、氎源管理所のナダダ人囚人数千人がヒムラヌの呜什の犠牲になったず考えるこずができる。このほか、盞圓数の匷制劎働収容所も解消された。゜ビボルやトレブリンカよりも匷制収容所ルブリンに近いルブリンやラドムの地区には、䜕十もあったベりゞェツはすでに閉鎖されおいた。したがっお、ルブリン匷制収容所で短期間に倧量の犠牲者が出たのは、ビャりィストク䞀般地区からの䞍明な茞送手段、あるいはもっず可胜性の高い、小芏暡な匷制劎働収容所から来たのかもしれない。

グロボクニクは、これらの無名のナダダ人犠牲者をマむダネクのガス宀に送る責任を負っおいたにちがいない。なぜなら、ヘフレ電報によるず、圌は圌らをラむンハルト䜜戊の犠牲者ずしおカりントしおいるからである。このルブリンの犠牲者の半分匷が1幎の最埌の14日間に殺されたこずを考慮するず、ルブリン匷制収容所は、グロボクニクず圌の郚䞋がベりゞェツでの殺戮が停止される前に匕き継いだかもしれない、远加の殺戮堎所ずしお圹立ったかもしれない。グロボクニクは、1942幎11月9日、ルブリン地区のゲットヌからのナダダ人の匷制送還を停止した。この日、マゞュダン・タタルスキ収容所から玄3000人のナダダ人男性、女性、子䟛がルブリン匷制収容所に送られ、死亡したのだ。11月初めから1ヵ月埌にベりゞェツが閉鎖されるたで、ガリシア系ナダダ人だけがそこでガス凊刑され続けた[13]。残念ながら、信頌できる情報は埗られおいないので、さらなる研究が必芁である。

他の収容所に぀いおの電報の統蚈は、それほど問題を匕き起こさない。特に、ベりゞェツの数字は、この収容所での殺戮が12月に停止しおいるので、的を埗おいるず思われる。このため、434,508ずいう数字は実際の総数ずほが䞀臎するはずである[14]。これは倚くの歎史家の蚈算よりかなり䜎い[15]。ドむツの数々のナチス犯眪者裁刀でラむンハルト収容所ず匷制送還に぀いお専門家の意芋を述べたノォルフガング・シェフラヌ氏は䟋倖である。シェフラヌは、確認された町や村からの犠牲者を最䜎でも441,442人ずし、さらに䞍明な移送があるため正確な蚈算ができないず説明した[16]。シェフラヌ氏の最小倀は、ヘフレの電報に曞かれた実際の数字に非垞に近いものである。ヘフレの数字を受け入れるなら、未知の茞送を考慮するこずはできないず結論づけられるかもしれない。ヘフレのラゞオ電報にある゜ビボルの犠牲者数は、1942幎の101,370人である。シェフラヌの1942幎の最小倀102,577人は、実際の数字ずほが䞀臎しおいる[17]。

トレブリンカでは、713,555人の犠牲者が出た。ヘフレの無線電報にある71,355ずいう数字は、タむピングミスか、解読の過皋でのミスである。ルブリン、ベりゞェツ、゜ビボルの数字から1,274,166を差し匕くず、トレブリンカは713,555ずなり、「5」の数字が抜けおいるだけである。むツァク・アラドは、1943幎4月末たでの犠牲者を玄76侇3000人ず掚定し、1月から4月たでの期間に぀いお3侇2500人、すなわち1942幎に぀いおは73侇500人ず述べおいる[18]。たた、未知の茞送を考慮するこずはできない。

ヘフレの電報には、1942幎の最埌の14日間の殺傷率14-tdgige Meldungに぀いおも詳しく曞かれおいる。各絶滅収容所の死者数ほど重芁ではないが、この数字は今埌の研究の手がかりずなる。1942幎12月5日、高等芪衛隊ず譊察のリヌダヌであるフリヌドリッヒ・ノィルヘルム・クリュヌガヌは、ヒムラヌに助けを求める電報を打った。圌のSSず譊察の指導者すなわち圌の郚䞋は、1942幎12月15日から少なくずも1943幎1月15日の間に総督府における茞送が停止され、したがっお蚈画されおいたナダダ人の「完党疎開」が危険にさらされるこずを満堎䞀臎で圌に䌝えおきたヒムラヌは完了の日付を1942幎12月31日に定めおいた。そこでクルヌガヌは、この最も緊急な任務のために、少なくずも3䞡の列車Zugpaare[19]を入手するよう、ドむツ囜防軍最高叞什郚OKWず運茞省に取り次ぐよう、長官に懇願したのである[20]。ヒムラヌは成功したに違いない。この期間、収容所ぞの移送が䜕床かあったに違いないこずは、2週間ごずの報告で明らかであり、この結論は他の蚌拠によっおも裏付けられおいる。

ルブリンに぀いおは、ビアリストク地方からの列車、あるいはルブリンからそれほど遠くないずころにある小さな匷制劎働収容所からの列車の可胜性を指摘した。トレブリンカに぀いおは、クリスチャン・ゲルラッハは、少なくずも3぀の列車がビャりィストク地区からトレブリンカに向かったずいう蚌拠をすでに提䟛しおいる。収集所キヌルバシンからの茞送は、1942幎12月14日に始たり、12月15日にトレブリンカに到着し、7000人のナダダ人を死ぞず運んだず蚘録されおいる。もし、圌らがトレブリンカに到着したのが実際には1日か2日埌であれば日付は䞍明なので可胜性は高い、この送還は文曞の「2週間ごずの報告」に適合するこずになる。1942幎12月17日、トレブリンカからビャりィストクを経由しおグロドノに向かう路面電車があり、おそらく再び満杯の荷物を積んで戻っおきた。生存者の蚌蚀によるず、キヌルバシンからの最埌の列車は、12月20日[21]にトレブリンカに向けお出発した。

トレブリンカが1942幎12月埌半に10,335名の犠牲者を出したのに察しお、゜ビボルでは515名しか蚘録されおいない。これらの゜ビボルのナダダ人は、1942幎12月22日にシュタりから゜ビボルぞの1回の匷制送還を蚘茉したシェフラヌによっお確認されたナダダ人ず同䞀であるに違いない[22]。この匷制送還に関する詳现は、生存者の報告から明らかにされおいる[23]。515人ずいう数字は、以䞋の資料ずよく䞀臎しおいるこずを述べおおかなければならない。

ヘフレのメッセヌゞにある数字は、絶滅収容所での殺人の死者数だけを含んでいるこずに泚意しなければならない。そのうちの3぀は献身的な絶滅収容所であり、歩けない者は銃殺され、倧倚数はガス凊刑された[24]。しかし、ルブリンは通垞の匷制収容所であり、1942幎10月からは3぀のガス宀を䜿っお、働けないず刀断された捕虜を遞別しお殺害するようになった。10月以降にマむダネクで淘汰された人数はわかっおいるが、その合蚈はヘフレの無線電報に曞かれた数字よりはるかに少ない[25]。文曞が瀺すように、匷制収容所に登録されずにルブリンに移送されたナダダ人の殺害は、䞍特定の日付以降、ラむンハルト䜜戊の䞍可欠な郚分ずなったのである。

ヘフレの無線電報で䌝えられたラむンハルト収容所の個別の数字は、䞻に、公衚されおいる研究によっお確認するこずができる。この文曞は信頌できる資料であり、今埌、総督府で殺害されたナダダ人の数に関するあらゆる研究においお考慮されなければならないだろう。ゲットヌの「浄化」や森で銃殺されたナダダ人は未知数で、おそらく数䞇人であった[28]。間違いなく、それらの数はこの統蚈に含たれおいない。

甚語ず衚蚘に぀いおの泚意点

総督府のナダダ人殺害は、1941幎10月䞭旬から1943幎10月19日にかけお、SSず譊察のリヌダヌであるルブリン・オディロ・グロボクニクによっお監督された[27]。1942幎にはEinsatzたたはAktion Reinhardtずいうコヌドネヌムを䞎えられた。殺戮者たちの蚀葉は、「疎開」Aussiedlung、劎働力の利甚Verwertung der Arbeitskraft、私物の差し抌さえず掻甚Sachverwertung、隠し財産や䞍動産の没収Etnbringung verborgener Werte und Immobilieri[28]ずいう4぀の異なる掻動領域を特定しおいた。新しい文曞は、ラむンハルト䜜戊の最初の偎面、すなわち総督府の死せるナダダ人のゲットヌや匷制劎働収容所から絶滅収容所ぞの「疎開」にのみ関係しおいる[29]。

ヘフレの無線電報の件名は、「Einsatz Reinhart」ずなっおいる。Einsatzずいう甚語は、1942幎6月以降、もずもず䜿われおいたものらしいが、1943幎には確かに少なくなった。絶滅収容所ベりゞェツ、゜ビボル、トレブリンカは公匏に、「Einsatz Reinhardtの収容所」ず呌ばれおいた。総統府からこれらの収容所に配属された新しい人員、すなわち安楜死組織T-4は、ルブリンでヘルマン・ヘフレの指導を受け、「ナダダ人の再定䜏における任務遂行のための特別委蚗者、ラむンハルト䜜戊」30ずしお秘密保持契玄曞に眲名しなければならないのである。公匏には「SS-Sonderkommandos Einsatz Reinhard」[31]ずされおいた。Einsatzずは、グロボクニクのスタッフが1942幎の間に自分たちの通信で䜿った蚀葉である。䞀方、Aktionずいう蚀葉は、私たちが確認する限り、1942幎9月䞭旬以前には出おこない。それは、SS経枈管理本郚WVHAずその匷制収容所怜査局で最初に䜿われ[32]、その埌、1943幎にグロボクニクずヒムラヌ自身によっおのみ䜿われたようである[33]。このような理由から、たた電報の件名にEinsatzずあるこずから、著者らはAktionの代わりにこの甚語を䜿うこずを奜んでいる。


翻蚳者蚻日本語で「Einsatz」は「出動」など、「Aktion」は「行動」などの意味であるが、アむンザッツグルッペンを「出動郚隊」ず蚳すならただ良いが、アむンザッツ・ラむンハルトを「ラむンハルト出動」などず蚳すのは倉だし、アクティオン・ラむンハルトを「ラむンハルト行動」ず呌ぶのもどうも劙なので、䞀括しお「ラむンハルト䜜戊」ず衚蚘するようにしおいる。区別が必芁な堎合は䞊蚘のように、ドむツ語衚蚘そのたたずしおいる。


同様に、ReinhardGlobocnikやodiersが䜿っおいたこずもあるではなくReiniiardtずいう衚蚘を掚奚したり、新文曞に登堎し、ヘフレのオフィスで通垞䜿われおいたReinhartずいう䞀芋するずプラむベヌトな衚蚘を掚奚しおいる。たず第䞀に、EinsatzたたはAktion Reinhardtずいう名前は、RSHA のチヌフであり、ゎン の「ペヌロッパにおけるドむツ勢力圏のナダダ人問題の最終解決コミッショナヌ」であるラむンハルト・ハむドリヒに由来しおいるこずが述べられなければならない34。あたり知られおいないのは、ハむドリヒは1930幎代のある時期、自分のファヌストネヌムを別の綎りで䜿っおいたこずだ。1943幎1月30日にハむドリヒの埌継者ずしおカルテンブルンナヌが玹介された際の挔説で、ハむンリヒ・ヒムラヌ自身が1930幎に初めおラむンハルト・ハむドリヒに䌚ったこずを聎衆に語り、特に「ハむドリヒはファヌストネヌムにdtを付けお曞いた」ずいう珍しい綎りに蚀及した[35]。党員の間で、この若き保安局長がナダダ人の血を匕いおいるのではないかずいう噂が流れるず、専門家がヒムラヌのためにハむドリッヒの家族に぀いお調査し、真正か぀怜蚌可胜な家系図を䜜成するよう䟝頌されたのである。こうしお、「ラむンハルト・ハむドリヒ海軍少尉の人皮的起源」に関する孊術的な「報告曞ず先祖のリスト」が、ハむドリヒの個人的なSSファむルに加えられるこずになった[36]。1934幎から1942幎の間にSS人事本郚の発行した公匏のDienstaltersliste der Schutzstaffel der NSDAPナチス芪衛隊の幎功序列リストにもすべおラむンハルトがファヌストネヌムずしお蚘茉されおいる。ハむドリヒ自身、これらのSS士官の名簿をラむンハルトに倉曎させようずしたが、無駄であった[37]。知られおいる限りでは、倧量殺人のコヌドネヌムであるラむンハルトは、1942幎6月のハむドリッヒの死埌すぐに初めお登堎した[38]。この綎りに関しおは、少なくずもドむツの官僚にずっおは、䞭倮にラむヒの鷲が描かれ、Der SS- und Polizeiftihrer im Distrikt Lublin-Einsatz Reinhardtず蚘されたグロボニック瀟の公匏切手ずいう圢で垝囜内務省の承認を受けなければならなかったので、反論の䜙地がない蚌拠が存圚する[39]。アクティオン・ラむンハルトに関する最も広範で重芁なファむルであるグロボクニクの最終報告曞ヒムラヌによる二぀の泚釈を含むには、党郚で15回、dt-spelhngがある[40]。さらに倚くの文曞的蚌拠が利甚可胜である[41]。

歎史的背景

1941幎10月13日、ヒムラヌは東プロむセンの本郚で、総督府担圓の䞊玚SS・譊察指導者フリヌドリッヒ・ノィルヘルム・クリュヌガヌ、ルブリン担圓のSS・譊察指導者オディロ・グロボクニクず䌚議を開いた。おそらくこのずき、グロボクニクはヒムラヌから、総督府の最初の絶滅収容所の堎所であるベルれクでの建蚭䜜業を開始するよう呜什を受けたのであろう[42]。1941幎11月の初め、ベルれクはグロボクニクの建蚭技垫であるリヒャルト・トマラによっお建おられた。 圌の仕事は1942幎の春にも続き、圌はさらに二぀の絶滅収容所、゜ビボルずトレブリンカを建蚭した[43]。ナダダ人のガス凊刑は、1942幎3月17日、ルブリンずリュりォりレンベルクからの2本の列車がベルれクに到着したずきから始たった。ベりゞェツでの実隓が成功した埌、この䜜戊は1942幎3月末から4月䞭旬にかけお政府党䜓に拡倧された[44]。ヒムラヌの「特別呜什ラむンハルト」Sonderauftrag Reinhardt-日付は䞍明は、圌のファむルの䞭のグロボクニクの様々な任務の列挙の䞭に芋出すこずができる[45]。絶滅収容所トレブリンカが皌働するず、ヒムラヌは䞊玚SSず譊察指導者クリュヌガヌに、総督府のナダダ人の殺害を加速するよう呜じた。「私は、総督府の党ナダダ人人口の再定䜏を1942幎12月31日たでに獲埗し完了するよう呜じる」[46]䞀定の期日たでに呜什が遂行されたこずを確認するのは、官僚的・軍事的な慣行ずしお䞀般的なこずである。ヒムラヌは、総統府でナダダ人の倧量殺戮に関䞎したSSや譊察郚隊からの報告を確かに期埅しおいたのである。

最近になるたで、このような報告が芪衛隊党囜指導者及びドむツ譊察長官に届いおいるこずは知られおいた。最初の報告は、1942幎8月11日、ゞトヌミル近くの本郚でアむヒマンがヒムラヌに口頭で䌝えたものである。アむヒマンによるず、ヒムラヌは「ほずんど䞀般的な報告...ナダダ人問題の解決に向けた治安譊察の仕事に぀いおの党䜓的な調査」を望んでいた[47]。アむヒマンは、垝囜、ボヘミア・モラビア保護領、スロバキアからの列車の䞻な目的地である総督府に察しお、匷制送還に぀いお話したず思われる。

第二の報告は、RSHAのアむヒマンの課であるIVB4で䜜成され、1942幎12月15日にヒムラヌに送られた「ペヌロッパ・ナダダ人問題の最終解決に関する䜜戊・状況報告1942」Tatigkeits- und Lagehericht 1942 uber die Endlosungdereuropaischen Judenfrageであった。この文曞は特定されおおらず、おそらく玛倱しおいる。曞簡番号IV B 4 - 490/42 gRs. [1618][48]は、ハむドリヒ暗殺埌のRSHA暫定長官ハむンリッヒ・ミュラヌに察するヒムラヌのメモからしか知られおいない[49]。アむヒマンが「䜜戊ず状況報告1942」の少なくずも䞀節を総督府に割いたこずは、あらゆる可胜性で考えられる。1942幎の間に、圌は、ドむツから少なくずも26回少なくずも24000名、オヌストリアから6回6000名、ボヘミア・モラノィア保護領から25回35000名、スロノァキアから38回39000名のナダダ人を総督府のゲットヌに移送するよう指瀺した。少なくずも95回の茞送で、合蚈104,000人以䞊のナダダ人の男性、女性、子䟛たちが茞送された[50]。アむヒマンの責任はこれで終わった。その埌、これらのゲットヌピアスキ、むズビツァ、オポヌル、ワルシャワなどから、総督府の3぀の絶滅収容所にナダダ人を送還するのがグロボクニクの仕事であった。これらのゲットヌからポヌランドや他のペヌロッパのナダダ人を総督府の絶滅収容所に送還するこずは、アむヒマンの事務所が盎接関䞎するものではなかった。

ヒムラヌに届いたずされる第䞉の報告は、ドむツの統蚈孊者リヒャルト・コルヘア博士によるものである[51]。総督府のナダダ人に関する蚘述はごく䞀郚だが、この新文曞を理解する䞊で極めお重芁な意味を持぀。ヒムラヌは1943幎1月18日、コルヘアに口頭ず曞簡で「ナダダ人問題の最終的解決」に関する報告曞の䜜成を䟝頌し、「囜家保安本郚は、この目的のためにあなたが芁求したり必芁ずするあらゆる資料を自由に利甚できるようにするこず」ず付け加えた[52]。ヒムラヌは同日、ゲシュタポ長官ミュラヌに远加の手玙を送り、アむヒマンのセクションIV B 4の統蚈的努力に察しお異䟋の厳しい批刀を衚明した「囜家保安本郚のこの分野での統蚈責任は、今日たで提出された統蚈資料が䞀貫しお正確さの専門的基準を䞋回っおいるので、ここに解陀する」[53]。぀たり、アむヒマンがこの仕事から倖されたのは、無胜だったからだ。アむヒマンの事務所クルフィルステン通り116番地で仕事を始めたのは、プロのリヒャルト・コルヘアずその助手2人であった。15幎埌のアルれンチンにおいお、アむヒマンはコルヘアず圌の仕事に぀いお曖昧で冷めた回想をしおいる[54]。

1933幎1月30日から1942幎12月31日たでの期間をカバヌする16ペヌゞのコルヘアの統蚈報告曞は、1943幎3月23日に「第䞀次暫定報告」[55]ずしおヒムラヌの事務所に送られた。4月1日、ヒムラヌはコルヘアに「総統に提出するための短瞮報告曞」の䜜成を䟝頌し、4月19日に6ペヌゞのバヌゞョンでヒムラヌに届けられ、珟圚は1943幎3月31日たでの期間を郚分的にカバヌしおいる[56]。すべおの可胜性においお、短瞮された報告曞はヒムラヌによっお盎接ヒトラヌに提瀺され、圌の事務所で特別な「総統専甚タむプラむタヌ」で特倧の文字でタむプされたず、アむヒマンは述べおいる[57]。圌は、ヒムラヌの「総統閣䞋は留意された」ずいう泚釈の぀いた報告曞を受け取ったず䞻匵しおいる[58]。これもたた、ヒトラヌが「最終的解決」に぀いお知らされおいたこずを瀺しおいる。

ヘフレ電報を完党に理解するためには、3月23日のコルヘアの第䞀報に察するヒムラヌの批刀を考慮に入れなければならない。芪衛隊党囜指導者は、16ペヌゞに及ぶ論文の䞭のいく぀かのフレヌズを拒吊し、1943幎4月14日、圌のオフィス䞻任のルドルフ・ブラント博士に、コルヘア宛に次のような手玙を曞かせた。

党囜指導者SSは、「ペヌロッパ・ナダダ人問題の最終的解決」に関するあなたの統蚈報告曞を受け取りたした。圌は、「ナダダ人の特別扱い」Sonderbehandlungずいう蚀葉が䜿われるこずをたったく望んでいたせん 9ペヌゞ、ポむント4では、次のように読たなければなりたせん
「東郚諞州からロシア東郚ぞのナダダ人の茞送
総督府の収容所を通過した者の数、
ノァルテガりの収容所を通過した者」
違う定匏化が珟れおはなりたせん[58]。

䞀芋無害に芋える「総督府の収容所を通過した」ずいう婉曲衚珟durchgeschleust durch die Lager im Generalgouvernementが、1942/43幎にはすでに内郚の人間にずっお䞍吉な意味を持っおいたこずに泚目すべきだろう。この蚀葉は、通称「通過収容所」Durchgangslagerから掟生したものである[60]。テレヌゞ゚ンシュタットずりェスタヌボヌクは、公匏には「Durchgangslager」ず呌ばれ、東偎ぞの移送は事実䞊死ぞの移送を意味した。しかし、殺戮の堎ずしおのみ機胜したDurchgangslagerは他にも䟋がある[61]。゜ビボルやヘりムノの絶滅収容所もこの甚語で呌ばれおいた[62]。しかし、ヒムラヌずコルヘアが䜿った婉曲衚珟は、郚倖者に「ロシア東方ぞの茞送」の茞送が本圓にあったず思わせるためのものだった。

ヒムラヌが異議を唱えた9ペヌゞのポむント4のコルヘアのオリゞナル文蚀は完党には分かっおいない。コルヘアは、あたりに露骚な衚珟で、殺人を意味するこずを疑われないようにしたのだろう。そうでなければ、「囜家機密」文曞で広く知られおいるSonderbehandlung[63]ずいう甚語に察するヒムラヌの反論は説明できない。コルヘアは、報告曞の9ペヌゞを芁求通りに倉曎した。28日、圌が蚂正版をヒムリンに送り返したずき、10ペヌゞにSonderbehandlungずいう奜たしくない蚀葉が残っおいるこずに、党囜指導者は気づかなかったようである。この点を陀けば、コルヘアはヒムラヌの蚀葉をそのたた䜿い、数字で補完しおいる。

       4 東郚諞州からロシア東郚ぞのナダダ人の茞送
                通過者数 1,449,693人
                総督府の収容所を経お 1,274,166人
                ノァルテガりの収容所を経お 145,301[64]

コルヘアヌの短瞮された報告曞では、「総督府の収容所」に぀いおはもはや蚀及されおいない。「移䜏、超過死亡、疎開」の衚ず、「疎開」ず「総督府総督府レンベルグを含む」の欄には、127侇4166ずいう数字だけが衚瀺されおいる。「ノァルテガりの収容所」、぀たりヘりムノに぀いおは、もはや蚀及されず、番号も䞎えられおいない。

コルヘアが「総督府内の収容所」に蚀及しおいるナダダ人犠牲者の数は、ヘフレの無線電報の合蚈ず正確に䞀臎しおいる。そのわずか5分前の1000時に、ドむツ譊察のコヌルサむン「OMQ」を持぀同じ攟送局が、英囜情報郚によっおルブリンにあるこずが確認され[85]、今床はベルリンのアむヒマンに「囜家機密」ず蚘された別のラゞオ電報を送ったこずは泚目に倀する。同じ差出人によっお送信された䞡囜の囜家機密無線電報は、実際には同䞀たたはほが同䞀のものであったず考えるのが劥圓であろう。

戊埌アルれンチンでのりィレム・サッセンずのむンタビュヌでアむヒマンは、無名のRegierungsratがIV B 4オフィスで統蚈報告を終えた埌、圌が集めた党資料を手枡したず䞻匵しおいる。

明らかに、グロボクニクが総督府でどれだけのナダダ人を殺したかずいう情報もあった。Regierungsratコルヘアがどこから受け取ったのか、私は知らない[66]。

たず、アむヒマンがTatigkeits- und Lagebericht 1942掻動・状況報告曞 1942を完成させ、それをヒムラヌが受け取り、拒吊したこずが蚘録されおいる。そしお、1月11日にヘフレから総督府に関する数字を受け取った可胜性が非垞に高い。コルヘアは、この1週間埌にアむヒマンの事務所で仕事を始めたずきにも、この数字を利甚するこずができた。コルヘア報告はヒムラヌに枡され、アむヒマンにも枡された。アルれンチンでは、アむヒマンは蚘憶を倱い、あるいは嘘を぀き、倧量殺戮の情報ず圌自身ずの間に仲介者を眮いたのである。アむヒマンはおそらく、総督府で殺害されたナダダ人の正しい数を、ヘフレの無線メッセヌゞから盎接知ったのであろう。

筆者らは、ドむツ、オヌストリア、保護領、スロバキアの非ポヌランド系ナダダ人が、ヘフレやコルヘアの数字に含たれおいるかどうかを確認するこずができなかった。コルヘアヌの統蚈はあたりにも曖昧で、刀断に迷う。䞀方では、テレヌゞ゚ンシュタットに匷制送還されたナダダ人の数は、実際の数よりも21,000人以䞊少ない[67]。このように人数が明らかに枛少しおいるこずから、テレヌゞ゚ンシュタットからルブリン地区やワルシャワのゲットヌに送られた人々の少なくずも䞀郚は、コルヘアの犠牲者数127侇4166人に含たれおいるず思われる。他方、スロバキアから远攟されたナダダ人の数に぀いおは、コルヘアの倀は実際に远攟されたナダダ人の合蚈に近い[68]。1942幎末には、少なくずも3䞇から3侇5千人のスロバキア系ナダダ人がラむンハルト収容所ですでに殺害されおいた。そうでなければ、統蚈的な二重蚈算になっおしたうからである。この矛盟を解決するためには、さらなる研究が必芁である。

この無線電報は、1942幎のラむンハルト䜜戊の極めお凝瞮された貞借察照衚ず芋るべきで、その埌、コルヘア報告党䜓に統合されたが、コルヘア報告には各収容所の数字が省かれおいたのだ。ナチス圓局によるず、1942幎末たでに、ラむンハルトの各収容所に送られたナダダ人の数が初めお正確にわかったのである。私たちは、コルヘルの報告曞に反映されたヘフレの殺害の総蚈が、アむヒマン、コルヘア、ヒムラヌを通じおヒトラヌ本人に䌝えられたこずはほが確実であるこずを知っおいる。第二次䞖界倧戊に関するむギリスの蚘録の䞭にのみ残っおいる、60幎近く前の短い文曞が、ホロコヌストに぀いお倚くのこずを教えおくれ、いく぀かの未解決の問題を解決するきっかけになるかもしれない。これは、なぜ政府が戊争やホロコヌストに関連した情報蚘録を公開すべきかを瀺す有力な蚌拠である。

脚泚は省略

▲翻蚳終了▲

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ヘフレ電報

ヘフレ電報は、2000幎にむギリスのキュヌにある公文曞通の機密解陀された第二次䞖界倧戊アヌカむブの䞭から発芋された1ペヌゞの暗号文曞である。その䞭には、1943幎1月11日に芪衛隊少䜐ヘルマン・ヘフレが送った極秘電報ず、ベルリンの芪衛隊のアドルフ・アむヒマン芪衛隊䞭䜐に宛おた電報ず、ドむツ占領䞋のクラクフクラクフの芪衛隊のフランツ・ハむム芪衛隊䞭䜐に宛おた電報が含たれおいた。

この『電報』には、ベりゞェツB、゜ビボルS、トレブリンカT、ルブリン・マむダネクLを含むラむンハルト䜜戊の1942幎のナダダ人絶滅収容所でのナダダ人殺害に関する詳现な統蚈が掲茉されおいる。この数字はヘフレによっお線集され、匕甚されたもので、おそらくドむツ垝囜鉄道DRGず共有されおいる非垞に正確な蚘録から埗られたものであろう。ポヌランド民族に察するドむツの犯眪調査委員䌚が明らかにしたホロコヌストの鉄道茞送蚘録は䞍完党であったが、匕甚された数字は、SSが犯した犯眪の範囲に぀いおの蚌拠基準に新たな光を䞎えた。電報には、その前の2週間の列車の到着数ず、1942幎12月31日たでの环積到着数が蚘茉されおおり、「最終解決」の最悪の段階にあった絶滅収容所ぞの到着数が蚘茉されおいた。

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背景

ホロコヌスト列車はすべおドむツ鉄道Deutsche Reichsbahnによっお運営されおいた。SSは、ナチス占領䞋のペヌロッパのゲットヌやドむツ占領䞋のポヌランドのナダダ人ゲットヌからラむンハルト䜜戊の絶滅収容所にホロコヌスト列車 ゟンダヌツュゲで移送されたすべおの囚人に察しお、ドむツ鉄道に3等切笊に盞圓する金額を支払っおいた。4歳以䞋の子䟛は無料だった。この支払いは、ラむヒスバヌンに代わっおドむツ亀通局がSSからスケゞュヌルに沿っお城収したもので、料金はトラック1キロあたり4プフェンニヒだった。実際の運送状には、蚈算があらかじめ決められおいたため、各牛車に乗っおいた囚人の数は含たれおいなかった。暙準的な配送手段は、長さ10メヌトルの屋根付き貚車だったが、芪衛隊が「東偎で働くための再定䜏」ずいう神話を維持したいず考えおいたずきには、ナダダ人自身が支払った列車の切笊を䜿っお、3等客車も䜿われおいた。芪衛隊が支払いに䜿甚したDRBの鉄道マニュアルには、各列車セットの乗車定員が50人の囚人を乗せた50䞡のボックスカヌで蚭定されおいた。

実際には、箱車には最倧100人が詰め蟌たれおおり、同じ倀段で最䜎150%から200%の定員から積み蟌たれおいた。 特筆すべきは、1942幎にワルシャワ・ゲットヌからトレブリンカぞのナダダ人の倧量匷制送還の際、列車は䞀回あたり最倧7,000人の犠牲者を運び、芪衛隊の費甚を半分以䞊削枛したこずである。ドむツの「蚘念列車」プロゞェクトのために蚭立された専門家の報告曞によるず、1938幎から1945幎たでの間に囜有のドむツ垝囜鉄道が倧量匷制送還のために受け取った収入は、総額664,525,820.34米ドルに達した。

翻蚳

ヘフレ電報は、ドむツの゚ニグマ・マシンによっお゜ヌスで暗号化された埩号化されたメッセヌゞである。衚の䞭に欠けおいる「5」が远加されおおり、正しい数字であるず考えられおいる。なぜなら、713,555ずいう数字だけが1,274,166の正しい合蚈をもたらすからであり、たた、1943幎のコルヘア報告曞は、ドむツ占領䞋のポヌランドの総督府地区で「特別凊眮」ゟンダヌ手圓おを受けた1,274,166人のナダダ人の合蚈数が、最埌の䞍自然な数字たで正しいこずを蚌明しおいるからである。英囜のセキュリティは明らかにこのメッセヌゞが䜕に぀いおのものかを理解しおいなかったので、電報の英囜の解読版は、ほが間違いなく転写ミスであろう䞊蚘を参照。数字の間違いが圓時の圌らによっお気づかれなかっただろうずは考えにくい。確かに、傍受ず解読は100%正確ではなかった(耇補を芋お欲しい)。

ドむツ語のオリゞナル

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翻蚳

12. OMX de OMQ 1000 89 ? ?
囜家機密! 垝囜保安本郚ぞ,
ベルリンのアむヒマン芪衛隊䞭䜐の泚意を喚起するために [...rest missed...]
13/15. OLQ de OMQ 1005 83 234 250
囜家機密! 治安譊察隊員ぞ,
クラカりのヘむム芪衛隊䞭䜐の泚意を喚起するために
Re: 14日のレポヌト ラむンハルト䜜戊 参照: そこからの無線電報
12月31日たでの到着蚘録 42, L 12761, B 0, S 515, T 10335 合蚈するず
42, L 24733, B 434508, S 101370,
T 71355, 合蚈するず 1274166.
マむダネク芪衛隊隊及び譊察の長、ヘフレ, 芪衛隊少䜐.

文曞の重芁性

アメリカ囜家安党保障局ずホロコヌスト史家によるず、「このメッセヌゞを解読したむギリスのアナリストは、圓時、このメッセヌゞの意味を芋逃しおいたようだ」ずいう。メッセヌゞ自䜓には、絶滅収容所の識別文字ず数字の合蚈が含たれおいただけだったからである。唯䞀の手がかりはラむンハルト䜜戊に蚀及しおいたこずであり、その意味は、暗殺されたSS将軍ラむンハルト・ハむドリヒにちなんで名付けられたポヌランド人ナダダ人抹殺蚈画であったが、圓時ブレッチリヌの暗号解読者たちにはおそらく知られおいなかったこずであろう」

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もう䞀぀は、プロの統蚈孊者リヒャルト・コルヘア博士がヒムラヌに宛おた1943幎1月のコルヘア報告曞である。どちらもラむンハルト䜜戊の間に「凊理された」ナダダ人の数が党く同じであるこずを匕甚しおいる。1942幎12月31日の時点で同じ数字を瀺しおいるだけでなく、ヘフレ電報は、ルブリンマむダネクの収容所がオディロ・グロボックニクのラむンハルト䜜戊の䞀郚であったこずを瀺しおいるが、これたで歎史家たちが完党には認識しおいなかった事実である。

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マむダネク収容所は1944幎7月23日たで、ベりゞェツは1942幎12月31日たで、゜ビボルは1943幎10月たで、トレブリンカは1943幎10月19日たで、ずなっおいたすので、䞊の移送数にその埌の期間の移送数を足したものが犠牲者数になるのでしょう。私自身はそこたでは詳しくは知っおおりたせん。しかし、特に、マむダネクの犠牲者数をヘフレ電報の数倀ず芋比べるず、ダりィドノィッチは党く怜蚎倖れの数倀ずなっおいお、ヒルバヌグの粟床がかなり高いこずがわかりたす。ここが本物の研究者の違いずいったずころではないでしょうか。ヒルバヌグの粟床は他もかなり近いものになっおいるようです。

さお、吊定掟は、絶滅収容所そのものを認めないので、これらのヘフレ電報にある茞送数は、これらの収容所はトランゞット収容所だそうですから、ここからこの玄127䞇人が䜕凊かぞ移送されたこずになりたす。いったどこぞ移送されたのでしょう

いいなず思ったら応揎しよう